Catfish and Mandala

A two-Wheeled Voyage through the Landscape and Memory of Vietnam

By Andrew X. Pham

 


 著者は南カリフォルニア大学を優秀な成績で卒業し、エリート・エンジニアとして航空会社に就職する。貧しい移民一家の長男として両親を安堵させたかに見えたのも束の間、持ち前の反骨精神はおさまりきらず、退職してフリーランスの技術ライターになる。そんな時に起こった姉の自殺。二十七歳の著者は所持品をすべて売り払ってバイクでの旅に出る。メキシコ、日本、そして十歳の時に脱出した故国ベトナムへ。
 

1960年代のハノイで教師だった著者の父親は、南ベトナム軍に徴兵された。そして北軍の勝利と共に戦犯となり、収容所で処刑を待つ身となった父を、母は賄賂をつくして逃亡させ、五人の子供たちと共に小さな漁船での国外脱出を断行する。燃料が尽き、破損した船があと一日で南シナ海に沈むだろうと思われたとき、インドシナの貨物船に拾われてジャカルタの難民キャンプに収容される。一年半に及ぶ収容所生
活の後、バプティスト教会の援助によって、ルイジアナ州の町で唯一のベトナム人一家としてのアメリカ暮らしが始まる。しかし九ヶ月後にはベトナム移民の街と化したカリフォルニア州のサンホセに移住。スラム街で貧しさに喘ぎながらも、誇り高い両親は子供たちを旧世界のやり方で特訓していく。そして「これほど過酷な体験を強いられた一家が無傷で宿命から逃れられるはずもない」と著者が語る事件が起きる。長女のチーの身体に刻みこまれた折檻の跡を見咎めた学校が公的機関に通報し、父親は児童虐待の疑いで逮捕されたのである。自分の証言によって父を罪に陥れることを恐れた十六歳のチーは家出する。そして、十四年後、性転換手術によって男性になったチー姉さんはミン兄さんとして帰ってきた。かつての父の激しい折檻も、娘の奇行を正そうとしてのことだったのである。

 生き延びることそしてアメリカン・ドリームを手に入れることを命題として励みつづける一家にとって、ミン兄さんの苦悩を分かち合う余裕はなかった。ミンは首を吊って果てる。著者の無銭旅行は、ミン兄さんの十四年間の孤独を分かち合うためのものでもあった。


 外国に住むベトナム人に対する本国のベトナム人の反応は、羨望と嫌悪と民族の誇りが二重、三重に曲折した形で表出する。


「俺たちが食べているものは汚くて食えないというのか」と迫られて口にした食事で、下痢に悩まされる毎日。乱暴者の酔っ払いは著者のベトナム語に訛りがある、と難癖をつける。愛想良く近づいてきた物売りは「なんだ、日本人旅行者じゃないのか」となじって去っていく。バーで知り合ったダンス・ガールは「わたしと結婚してアメリカへ連れて行って。あとで離婚すればいいのだから。あなたがそれをしてくれるだけで、わたしは家族を助け、わたしが生む子供たち、そしてその子供たちがアメリカ人になれる。何人もの人間を救うことができる」とかきくどく。 


 貧しい人々、賄賂なしには何もできない社会、外国人は金の卵を生むニワトリとばかりに高値をふっかける業者。アメリカ人の目で母国の醜悪さを嫌悪し
ながらも、そう感じている自分を恥じる。「国外脱出できたベトナム人は宝くじに当たったようなもの、あの時うまくいかなかったら、自分も彼らと同じように暮らしていただろう」と述懐する。 


 同時に、清涼飲料水の会社を築いて成功しかけていた従兄が、政府に大口の賄賂をつかって進出したコカコーラ社によって倒産してしまうという現実に、やりきれなさを覚える。「アメリカに住むベトナム人は所詮、お客さんじゃないか。自分が本当にアメリカ人だという気がするかい?」と問う友人に著者は「アメリカ人だと感じるてよ。時々、自分こそが本当のアメリカ人なんだ、と感じるよ」と答える。ベトナム系アメリカ人というアイデンティティを越えた、裸の人間としての魂の旅を試みた著者が辿りついた境地が、このあたりに垣間見られる。


 そして、ベトナムで出会った、極貧の中でなおかつ土地を愛し、この土から生まれて再び土に帰っていくくり返しを静かに受け入れている人々との対話に共感していく。
 著者がメキシコで会ったベトナム帰還兵タイルは「ベトナムに行ったら俺の代わりに申し訳なかったと伝えてくれ」と言う。ベトコン兵士だった老人にその言葉を伝えた時、老人は「アメリカ兵を恨んでなんかいないよ。彼らも俺もガキだったんじゃないか。国っていう大きな生き物の一部だっただけだ。俺がこうして食べている魚に恨まれる筋合いがないのと同じさ。彼らもアメリカという池にいる魚さ。この山、
このジャングルでは彼らも食い物以外の何でもなかったんだ。俺は、俺の土地、俺の水の中にいる。この山でベトナム兵もアメリカ兵も殺した。その山を毎日見て暮らしていると、心がなごんでくる。アメリカ人にとっちゃ、ここは他人の土地だ。昔も今も、悪夢を見た他人の土地でしかなかったのさ。この土が彼らの魂を奪ったんだ。だけど俺は、この土から育ったものを食って生き、いつか同じ土に帰る。俺が取ったものはみんな返してやれる。ここは俺が生まれた家で、俺の墓でもあるんだ。その友達に言ってやりな。許すも許されるもないんだってね。この土は誰も恨んじゃいないよ。俺の魂は誰も恨んじゃいない。こんな貧乏暮らしで、土間におっ立てたあばら家だけど、いつでも遊びに来てくれていいよ。兄弟みたいに、一緒に茶でも啜ろうじゃないかってね」

 


 著者の一家は、普通の人が五世代に渡って体験するようなドラマを二世代でくぐり抜けたかのように、めまぐるしい価値観の変化に曝されつづける。移民一世の人生は多かれ少なかれそうした色彩を持つものだが、優秀な一家であったことが、ことさらそのスピードを速めたようだ。


著者は父親をこう描写する。
「彼は論理の人で常に修正と改善をしつづけるプログラマーだった。知性と情熱と強靭な意志を合わせ持った典型的ベトナム人だった。詩人であり、優秀なフランス語翻訳家であり、ギターでクラシック音楽を奏でることもできた。そして、僕が学生時代に絵描きになりたいと言った時は猛反対されたから想像だにしなかったが、彼自身がすぐれた絵描きだった。波乱万丈を強いられた男の人生で、これほどの才能を開
花させ得たのだ。横暴な貴族階級の父親の長男として生まれ、十代で母に死に別れ、戦争と飢餓を生き延び、ベトコンから逃れて土堀り労働者となり、学者としての名誉に輝き、親の反対を押し切って恋する女性と結ばれ、公務員、兵士、国民党の将校となって家族を養い、数学教師となり、事業家になり、共産党政権の囚人となり、逃亡者となり、無一文の難民としてアメリカに渡り、掃除夫をしながら夜学に通ってコンピュター・プログラマーになり、ソフトウエアー・エンジニアーになった。そんな中で、娘が家出し、十四年後に男になって帰ってきたと思ったら、自殺してしまった」


 その父が「親父は横暴な男だった。自分も虐待された子供だったんだ。だから虐待する親になってしまった」と吐露した時、著者は、「そんなことを言わなくてもいいんだ」と心の中で叫ぶ。それじゃあんまりじゃないか、父さんは古い世界から来た人だったんだ、僕のようなアメリカ人じゃないんだ、児童虐待なんていうアメリカ的な概念で自分を責めないくれ、息子の自分が救われただけで十分だ、と思うのである。著者の弟たちはそれぞれ医師、弁護士となって両親の夢を体現するが、二人ともホモセクシュアルである。著者は「父さんが厳しく躾たせいじゃないんだ。勉強ばかりさせて女の子とデートする暇がなかったからゲイになったわけじゃないんだよ」と慰めるのである。

 日本を訪れた時のエピソードとしては、成田空港からバイクで都心に出ようとして道に迷い、先行する自転車に乗ったおじさんにカタコトの日本語で話しかけたら、怯えて逃げられた話、奈良の寺院近くで野宿して観光客に面白がられた話、関西に向かう途中で嵐に会い、束の間の暖を取りたくて入ったコンビニの店員にすげなく扱われた話、意気消沈している時にホームレスの夫婦に彼らの家に招待された話、
などなど、アジアの先進国としての日本ではない日本を体験したようである。


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