交換日記過去ログ2

 

■2001/05/30 (水) 原因を究明して再発を防ごう!(M)

そうなのかぁ。本当の原因を知ることを怖がっている人がいるのね。
でもどうしてだろう?「完璧な人間なんていない」というセリフは誰でも言ったり、聞いたりしてきたことなのにね。うーーん、でも、対外的な影響を考慮して
とりつくろいをしなくちゃ、というモラルがやっぱりあるよね。しかし、影響される人たちって誰なのさ。一般大衆とか世間とかのことだよね。わたしたちのことじゃない。馬鹿にするな、といいたくなっちゃう。
それで思い出したけど、クリントンのスキャンダルってのはおもしろい現象だったなぁ。あれだけの醜態を晒した後で、クリントンの支持率は60%もあって、ゴアの代わりに再出馬できたら絶対に再選されただろうといわれていた。
もちろん、支持している人たちだって「ろくでもないことやらかしちゃって」とか
「大統領としてはちゃんと仕事しているからいいけど、個人的には顔もみたくない」
という人が多かったと思う。反対派は「あれでは子どもにモラルを説けない」というのが大きかったでしょう。それと「みっともない言い逃れさえしなければまだ良かったのに」というのと「歴代の大統領がみんなやってたことをほじくりだして、国民の血税を無駄使いしている」という共和党への反発も大きかった。
今後、政治家のこうしたスキャンダルに関しては、メデイアから質問されたときに「そんなことはわたしの政治的見解とは関係のないことですからお答えしません」といえば、国民の大多数は納得するのじゃないかと思う。つまり、その程度には
「完璧な人なんかいない」観が浸透しているということかな。
人間というのは縁しだいで良くも悪くもなるっていうのが仏教の教えじゃなかったっけ?修羅にも畜生にもなるのだから、できるだけそうならないように、原因を究明しておいた方がいい、ってことよね。そんな特性は自分にはない!ってふんばればなくなるってもんじゃないでしょ。歴史がそれを証明しているじゃないの。

■2001/05/28 (月) あっ!(い)

サインいれるの忘れた、下の「責任と原因」は私「いるか」の投稿です(^^V

■2001/05/28 (月) 責任と原因

昨日テレビで「航空機事故」の話をしていたんだが、航空機事故の70%は人為的ミスによるものだという話なんだ。で航空機業界ではこの人為的ミスを少なくするために

「責任と原因」をわけて調査をするように勤め始めたって話があったんだが。

これは本当に大切なことなんだと思うんだ、僕のHPの自己紹介の右隅にも少しふれているけど「責任と原因」をわけなけりゃ、本当の原因にはとても到着出来そうにないのが、人間社会の問題なんじゃないかなぁ。
 たとえば少年が犯罪を犯したとすると、そこには親とか教師とかかかわりのある人全員に原因があるのだけれど「責められる怖さ」があると合理化の「否認」が歯たらいて、結局少年自身の問題だって事で終っちゃうんだよね。
だから、同じ様な事が繰り返されるんだ。
 幼児虐待だってそうなんだ・・・・・・
でも「誰かを責めることで、再発を防ごう」という発想そのものが、社会からなくならないかぎり、繰り返される事なのではないだろうか。「本当の原因を」なんて言うと今の世の中ではまだまだ「本当の原因ってなんだ?」とか言ってはぐらかそうとする「怖がり」がい~~っぱいいる限り結構難しい問題なんだよね。
 勿論「こわがり」が「いけない事」なんじゃないよ♪
この問題は犯罪とか、事故ばかりではなく「精神的病」にも関係があって、いわゆる「人間社会の問題」を考えていく上ではとっても重要なことだと思うんだ。

■2001/05/20 (日) ほめる(い)

勿論、現在の人間社会は兵士の素質を持った人達で、作られてる「競争社会」だから、自然に育ててしまうと「現実適応」という面ではかなり将来困難を経験する可能性が大きいから、従来の子育ても取り入れつつ、代を重ねてすこしづつ、というのが良いのではないかと思うんだ。
 当然人間が成長するのは肉体だけでなくって、精神というか、心というか、まぁ自我が育っていくのだけれど、まだ成長途上の時に激しい精神的攻撃を受けると、成長が止まったり、悪くすると精神が破壊してしまうので、それに対応するだけの智恵だけはつけておかなきゃならないかもしれない。
 現在の育児書なんかは「ほめなさい」みたいなのが流行しているけど、たたいたり、脅したり、けなしたりするよりは数段良い事はいいんだけど、結局「親の価値観」でしかないんだよね。子供の行動をみてると同じ「いたずら」に見えるものでも、色々な種類があるんだ、そのなかでも「お手伝い?」をし様としているのが結構おおいんだよね、本人には「お手伝い」ではなくって「親の模倣」なんだけど、これが結構じゃまになったりするんだ。それを頭ごなしにおこったり、じゃま扱いしたりしたら、もうお手伝いをしない子になっちゃうだろうなぁとか思うんだ。でも結構きつい(;;)
 子供は誉められなくってもやりたい事見つけてやっていくし「自発性」が「ほめられたいから」に変わってしまうのは、やはり気をつけなきゃならない問題かもしれないよね♪
 まぁ「善悪の価値観」の問題だから、社会との整合性を念頭にいれつつ、って所かなぁ・・・・
 そして、それが代を重ねる毎に、全体が「兵士の価値観」から少しづつはなれていくすなわち社会の価値観が少しづつ変わっていくってのが、いいのじゃないだろうか、とか思うんだ。
 それには戦争や犯罪を従来の「抑圧」という方法で抑えていくのはあるていど必要ではあるよね。

■2001/05/19 (土) 人工的子育て

>人類はとても長い事「戦争」をし続けているために、子育てに「人工的に手を
>加える」事が常識になってしまったと考えてもいいだろう。だから常識や慣習
>といったものを「無批判」に受け入れて子育てをしたら自分では望まなくって
>も、我が子を「人間を殺せる人間」すなわち「兵士」にしてしまう可能性は
>とても大きいのではないだろうか。

これは世の子育て専任者たちをゾッとさせるような話!わたしもそんな人間を育ててしまったのね。いや、その前に、わたし自身がそんな人間なのね!!
まぁ、ここで大騒ぎしてもはじまらないから、もうちょっと突っ込んでみよう。
いったいどうやって人間不信にするのか、って考えてみると、その第一歩は自己不信じゃないだろうか?しつけというのは(これが人工的に手を加えるということなのだろうけど)定義として「オマエは悪い子だ」と教えることよね?
なーんて言うと「そんなバカな!」という声が聞こえてきそうだけれど、わたしも最近になってやっとこれがわかったの。もうーー、おそいんだヨ。
つまり、子供が何か、大人にとって都合の良いことをしたときに「いい子ねぇ」といえば、それをしていないときは悪い子だ、と教えていることになる。ちがう?この辺はとても誤解されやすい部分だと思うのだけど、とりあえず3歳以下の子供を念頭においてみると、よくわかる。この年齢の子供がすることの中に、たとえ大人にとって相当に都合の悪いことであっても悪いことなんてひとつもないわけよね。子供はあらゆる体験を通して世界を発見し、自分なりの快・不快感みたいなものをつかもうとしているわけでしょ?それに水をさすことは、自然な感覚をつぶしている・・・別の言い方をするなら、後になってからとても大切になる脳の神経回路の形成を阻止してるということ・・・よね。
ともあれ、この「自分は悪い子だ」感というのが大変な曲者だと、わたしは思う。これこそ兵士づくりの奥義なんじゃない。

■2001/05/14 (月) 人間を殺せる人間(い)

 人間を殺せる人間を作るには、まず徹底的に「人間不信」にしなければならないでしょう。しかし人間は本能的に社会生活が出来るように作られているため「人間不信」になってしまうと、他人との「こころの交流」が不可能になってしまう為に、慢性的に「さびしさ」が付きまとう事になってしまいます。この「さびしさ」を満たす為に、色々な「行動化」が起こるのですが「他人をひれ伏させる」とこの「さびしさ」が解消出来るような錯覚が生じてしまうのです。これが錯覚である事は、いくら他人をひれ伏させても、決してこの「さびしさ」は解消できないのです。しかしこの「錯覚」は強固です。だから、人をひれ伏させる為の「富や名誉や地位」などを血眼になって追い求めることになるのでしょう。しかしもし、そのような物が手に入らないと感じてしまったら、彼らは間違えなく「自己崩壊」してしまうのです。ですから、これは価値観とかいう次元を超えた彼らが生きて行く為に絶対的に必要なものなのでしょう。
 この事は国が「兵士」を持っていなくてはならないと感じていたら、彼らの居心地の良い環境をもれなく提供しなくてはならない事だと思います。ところが、常識や慣習にとらわれて子育てをしてしまうと「必要以上に」兵士の素質を持った人間が出来てしまうのでしょう。これは「歴史が繰り返す」なかに良く見られる国の崩壊のメカニズムだと思っています。国そのものが「自己崩壊」してしまうのです。
 すなわち「人間を殺せる人間」という命題そのものが「自己矛盾」を含んでいるからに他なりません。
 だから、常識や慣習を知的にしっかり見なおして「自然にまかせて子供を育てる」人が増えていけば、価値観は自然に変化するのではないかと思うんですが・・・

■2001/05/14 (月) 兵士、戦士(い)

ここで、ちょこっと話題を変えて。といっても同じ事言ってるんだけど。
僕が、色々な情報を集め自分なりに考えて、あるとき「ひらめき」があって、そんなものの積み重ねで、今の考え方があるんだけど。その「ひらめき」の中でもっとも重要だと僕自身が感じているのは「そうか☆!人間は本来人間を殺せないんだ!」という奴だと思っているんだ。だから、この前提を「違う」と思っている人とは基本的に意見は合わないと思う。そこを抜きにしていくら議論をしても平行線はまぬがれないんだよね。
 もし「戦争」を前提としていれば、当然国としては、大量の「人間を殺す事の出来る人間」を準備しておかなくてはならない事になるんだ。それが「兵士」とか「戦士」と呼ばれるものだろう。当然どの国でも「自分たちを守ってくれるもの」という意味で「兵士」は重要な存在かもしれない。でもあくまでも彼らは「人間を殺せる人間」なんだという事を意識しておく必要があるのではないだろうか?
勿論「兵士」に悪い印象を持たせようとしているわけではなく。「良い悪い」を肥えて「・・・・・というもの」という事を意識することが大切なのではないかと思っているんだ。
 では「人間を殺せる人間」はどうやったら作れるのだろうか?という事から見ていく事から始め様。
本来「人間を殺すこと」が出来ない人間を「殺すことが出来る人間」にしなければならないので「自然の成長」にまかせておいたら無理なわけだ。そこで当然人工的に「手を加える」必要がでてくるというわけなんだ。
 人類はとても長い事「戦争」をし続けているために、子育てに「人工的に手を加える」事が常識になってしまったと考えてもいいだろう。だから常識や慣習といったものを「無批判」に受け入れて子育てをしたら自分では望まなくっても、我が子を「人間を殺せる人間」すなわち「兵士」にしてしまう可能性はとても大きいのではないだろうか。

千文字超えちゃったので、だいぶ消しちゃった(^^A・・・・・・・(つづく)
 

■2001/05/10 (木) 非情ないい子

学校教育ではパターン化した「偉人像」しか教えないのがひとつの問題よね。それでは子供たちの多様な個性を育てられない。わたしの仲間のひねくれた親たちは「学校の勉強がよくできる子ができる仕事は学校の先生」なんて皮肉を言っていたけども(^^
個性を無視して競争原理だけで追いたてるということは、弱者を切り捨てる「非情」を武器にすることになるわけだけど、ここで問題になるのは、子供というのは定義として社会における弱者なのだから、ここですでに自己否定がはじまっている。そして老人もやはり弱者だから、いずれ自己矛盾を起こしていくわけだ。親が老いていくにつれて、自分が叱咤激励したにもかかわらず、望み通りに自分を殺して成功したよい子を愛さなくなる、という何とも皮肉なめぐり合わせになる。
もちろん、これは個性を無視してパターン化した進路を強制したときの話。自分が選んだ道なら問題はないのよね。ただし、高校を卒業するような年齢になったとき、もはや自分が何を好きなのかわからなくなっている、ということが大問題なのだと思うのよ。すでに18年かけて、つぶされてしまっているのだから。何が好きだったのかわからない、だから何を選択したいいのかわからない、わからないから敷かれたレールの上を走っていく、あるいは、何をしたくないのかだけがわかっていて荒れる。
子供や老人や病人が弱者、という言い方は現状での競争原理からいうと、ということであって、わたしはもちろんそんな風に考えていない。人間にとってもっとも大切なものは何か、と問うとき、まったく違う価値観が生まれるのだから。
 

■2001/05/09 (水) 成功と非情(い)

勿論、成功(ここでは、社会通念的に財産とか名誉とか地位を築いた人という意味で使わせてもらいます)した人が全員「非情」だというわけではない。親が追いたてても、子供の個性が「タマタマ」あっている場合は非常にならなくっても成功する事はよくある。世界人口が50億もいるのだから、その「たまたま」でも何千万人もいるかも知れない。しかし、それを「モデル」にするのは、危険があるのではないだろうか?と私は言っているんだ。(誰かに言い訳してるみたいだが、言い訳しているのではなくって、あるかもしれない反論にそなえているのかもしれない)
 良く学校とかで「偉人」の話をしたりして、あたかも誰でも「努力」すれば偉人になれるような指導をするけど、個性とか才能とか環境とかがそろわなければ、誰でもなれるというものではない事は、よく考えると明白な事なんだが、まるで催眠術にかかったみたいに、だれも彼もが子供を「成功」出来る人間にしたてようと、追い立ててしまってはいないだろうか?もし「努力」さえすれば誰でもなれるなら、野球で言えば、誰もがホームランバッターになれているだろうし、三振のとれる名ピッチャーになれているだろう。それが出来ないのはけっして「努力がたりない」のではないんだと声を大にして言いたい。
 しかし、追いたてて、出来なかった場合は、その子の人生は悲惨なものになるかもしれないし、悪くすると家族も悲惨な経験をしなくてはならないかもしれない。
そして、成功したとしても「非情」を武器にしていた人は、家族に対しても「非情」になるだろう。それは「無理をした」結果なのだと私は思っている。

 「しつけ」の話しをしようと思ったのだけど、今はうまくは纏められないので、また後ほど。でも確かに親は「いい子」はだんだん愛せなくなると僕も思う。それは社会的に「いいこ」にたいする認識の問題もあるかもしれない。
う~~ん、うまく言えない、もどかしさがなくはない。

■2001/05/04 (金) 敗北しなくてもハイリスク(M)

このところ友人たちの親が立て続けに亡くなった。50歳を過ぎた子の親は高齢に決まっているのだから、不思議はないのだけど、遺産相続に絡んだ揉め事をいろいろ聞かされてしまった。

①友人の弟は、大会社の重役を引退して妻とふたりで悠々とヨットを乗り回している。病的にキレイ好きである以外には(そのために子供を持たなかった)温厚で善良そうな人。彼らの母親が亡くなり、遺書に友人の息子へほんのちょっぴり遺産分けする、と明記されていた。これが友人の弟を激怒させた。「ゴミひとつでも分かち合わない!」という凄まじい怒りで、甥の方が降りた。いまだに叔父と甥は口もきかない。友人の息子は十代のときからウツを発病して自殺未遂も何度かやった。大学では文学を専攻し、30代になった今も細々と暮らしている。祖母は彼を可愛がったらしい。

②別の友人の姉は政治家と結婚し裕福に暮らしている。友人は十代のときにけっこう荒れて、一時はヒッピーだったがその後大学に行き直して専門職を身に付けた。結婚して息子を生んだが数年で離婚、以来ずーっとシングル・マザー。彼女の方が姉よりもさんざん親を悩ませたのだが、なぜか母親は妹娘が好き。もちろん、聡明な母親だからそんなことを行動で示したりはしないが、こういうことは隠せないものらしい。姉は母親が危篤状態になったときから、すでに説明しがたい怒りを母親に向けていたようだ。亡くなった後、遺書はなかったので法律に従って等分に分けることになった。お金ではなく家とか家具なのでややこしかったが、結局、友人は家族の写真とか母親の衣類(友人のサイズじゃないのに)など、センチメンタルなものばかり欲しがり、姉は金目のものをすべて入手。にもかかわらず、母親が生前に友人の息子の学費援助として分けてあった小額の貯金に、姉は猛烈なクレームをつけた。「金がなけりゃ大学なんか行かねば良い!」などとかなり感情的になっていた。この祖母も孫息子をとても可愛がっていた。

この心の狭さはどうだろう!!愛情に飢えているとき、人は果てしもなく所有物の量に執着する、ということじゃないだろうか。「ゴミひとつでも分かち合わない!」
と叫んでいるのは、「言われたとおりのいい子に育った自分を、どうして愛してくれないんだ」と泣いている内なる子供のような気がする。本当に、どうして親は、老いていくにつれて良い子を愛さなくなるのか???

 

 

 

■2001/05/02 (水) 家庭内の出来事

日本ではまだアメリカほどの貧困層は少ないかも知れないけど。今の状況がつづけば、いずれ増えてきてアメリカ並になっていくかもしれない。その辺の危機感は日本人にはまだ薄いような気がしなくもない。ひところ前には「一億総中流」と言われていた事もあったが、最近は政治家さん、や官僚さんと努力(?)のおかげで徐々に貧富の差は開き始めている。ここで生き残るには「非情」にならなければと危機感を持っている人は多いかも知れないが。将来の社会まで考えれないかも知れない。結局は「そうなってから」あわてるのだろう。
 かの中学生も結婚して子供を設けるだろう事は想像にかたくない。そうしたら、その子供はやっぱり「ほったらかし」にされるのではないだろうか?
家庭内の事だからあくまでも推測の域を出ないけど彼女達の両親は「しつけをしないと犯罪者になる」という常識の信奉者だったのではないかと推測する。子供の自我が強ければ強いほど「虐待」に近くなるに違いない。そうすれば当然の帰着として子供にとって「我が家」がじっと黙って良い子にしていなければならないストレスの場になってしまうだろう。そんな子供達が再び自我を成長させようとする10~12才位になれば体も大きくなり、外へ外へとストレスの解消を求めてさまよい出るのは必然ではないだろうか?
 女の子はそんな中で、いわゆる「悪い男」につかまってレイプまたはレイプまがいの扱いを受けて心はますます、すさんで行くのではないだろうか?「親も含め誰もが自分の得になる事しかやらないのだ!」と彼女達に「思いやり」を向ける人がいたとしても、そこまで「人間不信」に陥ってしまうと「思いやり」を受け取る事すら出来なくなってしまうのだ。
 あっ一つ質問に答えていなかった。かのテレビ番組の会話は「誰でもそうじゃん」のところで終っている、誰一人これには答えられずに、違う話題に変わっていった。
話しを戻して、だから厳然として存在している「競争社会」とそれを生き抜き成功するための常識が少しずつ崩れていかないと、悪循環は続き人類は歴史を繰り返す事になるのだろうと、思うんだ。
 「競争社会向きの子育ては、敗北すると取り返しがつかなくなり、悲惨な状況が待っている。そんなハイリスクでも貴方は子供を追いたてますか?」こんな疑問を投げかけ続ける事なんじゃないかなぁ?

■2001/05/02 (水) 子供救済(M)

その中学生たちはどんな育ち方をしたのだろう。
アメリカのローティーンの犯罪は相変わらずではあるけれども、子供たちがある日突然「悪い子になってみよう」なんて決めるものではない、という程度の認識は浸透していると思う。もちろん、過酷な生育環境によって歪められてしまった彼らとどう対処していくのか、その方法論の昏迷、それを実践する予算などなどが相変わらず問題。もうずいぶん前から「ビッグ・ブラザー、シスター」というボランティア・システムや、都会の貧しい家庭の子供たちを夏休みに田舎の家庭にホーム・ステイさせるシステムなどがあって、効果があるとされている。
大都市のスラム街にある公立高校で、生徒にコンドームを支給しはじめたとき大騒ぎになったけど・・・たぶん日本の人たちは「とんでもないことだ、だから子供たちの性モラルが荒廃するのだ!」なんて目を剥いて憤るだろうけど、これには複雑な背景がある。エイズ感染を防ぐという面も確かにあったのだけど、それよりも、父親が誰なのかわからない、わかっていて同居していてもドラッグ・ディーラーかなんかで、母親は売春婦。ほとんど放置された状態で育ってきた12、3歳の娘は、当たり前のことのように近所の20歳くらいのロクデナシ男と性関係をもちはじめる。はじめから強要されたかもしれないし、あとで止めたいといっても暴力によって強要されてやめられない、などなどという環境で生きている子供たちが、不整出血をしたかなんかで学校の医務室を訪れる。だんだんと事情がわかってきた医務室の看護婦はなんとかそんな不健全な関係を止めるように説得するのだけれど、一朝一夕に解決するものではない。とりあえず「今夜だけでもこれを使ってね」とコンドームを渡す以外に何ができるのか・・・という情況なのです。
いつの時代にも、どこの国にも底辺で過酷な人生を生きる人たちというものは存在するものだけれど、社会的・経済的には困窮していないはずの家庭で子供たちが歪められているケースというのが、ことさらわたしの関心を引いてしまう。たぶん、この辺から解決しはじめなければ、いったいどこをどうしたらいいんじゃい!という気持ちになってしまうからなのだろうなぁ。

■2001/05/02 (水) 思いやり(い)

ちなみに彼女達は(2人出ていた)高校生ではなくって中学生(13才)いわゆるローティーン。すっかり水商売の服装で出ていた、見た目にはとても中学生とは思えない。そして年齢をごまかして水商売で働いていて月100万位稼いでいるそうだ。しかし、その大半をマージャンにつぎこんで、多分カモにされてるんだろう。マージャンにまけるとむしゃくしゃして気弱わそうな男性を見つけて「痴漢だ!痴漢だ!」と騒げばほぼ間違えなく2~3万位はだしてくれるそうだ。

この例はたまたまテレビに出てきただけなので、実情は氷山の一角といえるだろう、前に事件になった話には援助交際(売春)で月何百万も稼いで、それをほとんどホストクラブに入れ揚げていた中学生の話もあった。今女の子だけではなく、男の子もかなり荒れている。

彼等をここまで追い詰めているものはなんなのか、皆が本気で考える時代ではないのだろうか?最近はアメリカのうわさがあまり入ってこないが、一昔前にはアメリカのローティーンの犯罪が良く取り上げられていた。今はどうなっているのだろう

 人間には基本的に「思いやり」と言う心が存在している、しかしこの心は大事に育てないと、うまく育ってくれないものらしい。しかし競争社会を生きぬくには、この「思いやり」が飛びっきり邪魔になってしまうので、自らの言動を省みない「無能化」が教育なんかでも無意識に推奨されてしまっているのが実情ではあるまいか。「ライバルを蹴落とす」なんて恐ろしい言葉が平然と使われる教育界って、なんか変だ、と思う人はいないのだろうか?蹴落とされた子供達の生きる道は?

■2001/05/01 (火) 愚問(M)

「だって、自分が得するんだもん、悪いわけないじゃん」
「自分が得すればなにしてもいいのかっ?!」
「だって、みんなそうしてるじゃん」

このあとに大人は何て答えたのかなぁ。わたしならどう答えるだろう。
「なるほど、なるほど。じゃぁ、この次からはそうしている人たちをよっく調べて、その人たちだけを相手に詐欺をしなさい。探すのを手伝ってあげよう」(^^
っと、これは冗談だけど、
「みんなそうしてるじゃん」という事実を突きつけられて、深く悩む大人が少なすぎるよね。ここでこの女子高生たちに誰かが言える事は、「みんながしていることかもしれないけど、わたしはあなたのことが好きだから、あなただけはその仲間入りをしてもらいたくない、と感じているのだ」ということくらいじゃないかしらね。そういう人が彼女の身辺に存在すれば、そもそもこんなことにはならなかったわけだけどね。自分が得をすると思っていることを止めなさい、というのは実に説得力がないよね。やっぱりこれは、得にならないんだよって方向で説いていくしかないと思うのだけど、得にならないという結果・・・そのひとつに孤独地獄なんてのもあるかな・・・が出るまでにはけっこう時間がかかるから難しい。もちろん、違法行為は逮捕されるという形での結果が出るけど、これはいるかさんが言うように、根本的な解決にはならないから、どんな些細な犯罪でも犯した人は即刻死刑!とでもして、すみやかに抹殺してしまわない限り、年季をつんで出所してくるだけのことになっちゃう。そしてこういう厳罰主義は公平に適用しなければ、世の中がめちゃくちゃになる。法を執行する人たちが神様でもない限り無理な話。早めに出る結果の中には、自分が苦しくなるということがあるけれど、これもまた、心のつながった人が誰かひとりでもいなかったら感じることのできない感情だったりする。痴漢詐欺をして得られる興奮感よりももっともっと甘美な幸福感というものが、この世に存在することを知らないから、それを知らない事はずいぶんと損なことなのだ、と知らないから・・・こんな人間の条件とでもいうべきものを知らない人たちが育っていくのをなんとかしなきゃいけないのよね・・・。

 

 

■2001/04/30 (月) 愚問(い)

千文字過ぎちゃったので、連続投稿(^^V

しかし、これらの競争社会適応者が「悪い」わけではない。そこをやっぱり抑えておかなきゃなならいと思うんだ。
その女子中学生が「悪いと思わない」と答えたのは合理化なんだ。だから「悪いと思わないのか?」という質問が、魚屋で「この魚は新鮮か?」と聞くのと同じくらいの愚問だと思うんだ。彼らの心の中には自分の言動に疑問を持ってる部分が必ずあって、と言う事は「悪い事をしている」と思っている心を知らないと、「悪いとは思っていない」という言葉だけを聞いて「彼等は善悪の区別ができないんだ!だから、痛い目にでもあわせなければ」という発想がでてきちゃうけど。それでは彼らの合理化に承認を与えたみたいなもので、ますます頑なな犯罪者を作る以外のなんの効果もないと思うんだ。
 犯罪少年も銀行のおえらさんも「心が病んでいる」と言う事なんだけど、そこのところを、これから、少しづつ社会に浸透させたいなぁと思っているんだ。
彼らの合理化を承認すればするほど、彼らの心はすさんでいくのだ。

今までの社会問題を考えている人達の共通の誤りは(と私が感じるのは)「悪者」にする事で、この世から排除しようとしている所に大きな問題があると思っているんだ。でも中には「いや排除しようとしているのじゃない、改心してもらいたい、と思っているんだ」という人もいるかもしれないが簡単に「改心」が出きればだれも犯罪なんかおかさない、そんな簡単なものじゃないから、いつまでたっても人類は問題を解決できずにいるんだ。だから「改心すれば」という前提そのものが、実は排除しようとしている事とかわりはないんだけど、理解してもらえる話なのかなぁ?。

■2001/04/30 (月) 競争社会のしわ(?)

前に話したテレビで見た、痴漢詐欺をしている女子中学生の話になるけど。
そこに出演していた男性が腹をたてて「お前ら、悪いと思わんのか?!」とつめよったら、彼女達は「別に思わないよ」「何故だっ!」

「だって、自分が得するんだもん、悪いわけないじゃん」

って答えていた。「自分が得すればなにしてもいいのかっ?!」「だって、みんなそうしてるじゃん」
この問答はとても色々な事を考えさせてくれる。彼女達は競争社会に適応できるように育てられちゃったので、変更が難しいかもしれないが。競争社会での成功者というか、競争社会を制して成功するにはこの感性が絶対的に有利なのは明らかなことだろう。
アフリカで安い労働力を確保する為に子供達が売買されようが、地球の環境が汚染されて、次第に住みにくくなろうが「私が利益を得ることに、なんの悪い事があるのだ!!」という事なのではないのだろうか?「遠いアフリカの事も自分が死んでからのずっと先の地球のことなんか、私には関係ない。その時の当事者がなんとかすればいいのだ!」と割りきれる事が、競争社会で成功する秘訣かもしれない。
今、日本は銀行の不良債権が重しになって、不況が続いている。それはバブル時代に「土地神話」に躍らされた銀行が「土地転がし」にどんどんお金を貸し付けた結果以外のなにものでもない。当時の土地転がしで、被害にあった人達は数知れない。でも銀行にとっては「自分には関係ない事」だったし、そう思える幹部が優秀な銀行マンだったのだ。で、今はといえば、銀行は赤字を埋め様となりふりかまわぬ金儲けに走っているように見える。中小企業への貸し渋りで、沢山の町工場がつぶれている。首をつったおやじさんも結構いる。銀行は「ノンバンク」(早い話が「高利貸し」)にどんどん貸し付け、中小企業は銀行から借りれないので、ノンバンクの高利を借りて、どんどん首が回らなくなる、資金繰りが悪くなると、親会社が警戒して、仕事を出さなくなる。う~~ん悪循環だ。
現在のテレビコマーシャルには「ノンバンク」のCMが異常に多い.高利貸しだけ景気のいい社会なんて長続きするわけない・・・・・・と思うんだが。
「成功」っていう言葉の影に競争社会のしわよせがある事を、もっとみんなが、実感する必要があるのではないだろうか?

■2001/04/23 (月) 「成功者」(M)

まぁ、どんな人生を送れば「成功した」といえるのか、というあたりが昏迷しているよね。やっぱり、最後に笑う者というか、人生の価値は死ぬ瞬間までわからないのだろうし、その価値とやらも、どたんばになったら非常に個人的なものでしかないだろう、というか・・・。
だから「脱落者」というのは実は脱落者と思い込まされている人、あるいは自分でそう思い込んだ人でしかない、と思うのだけど、この辺をなんとかしたいなぁ、なんて感じてるのよね。
ひとりだけの力でできることなんてのはこの世にひとつもない、という発想を無視して到達した「成功」・・・それが競争社会の「成功」だろうけど、実はこれも長い目でみると必ず何代かの後に崩壊していくみたいだ。昔から三代目で身上つぶすなんていうけど、移民の国アメリカでは「一家から芸術家を出すには三代かかる」という。
一代目は無一文からはじめて働きづめに働き、子供を大学に送る。親の苦労を見て育った子は、好むと好まざるにかかわらず、医者、弁護士etc.の専門職について中流階級の仲間入りを達する。その子供たちは生活の苦労は知らずに育つから、芸術とか哲学に目覚めて一家に文化をもたらす。その見返りに財産をすべて食い尽くしてしまったりする。中には「土地は人民のものである」なんて思想を持ってしまうのも出てきたりして(^^)。
そして、ここまできてようやく、貧乏だけれども人生の何たるか、みたいなことを性懲りもなく追求しつづけた親に育てられた4代目が、実にあっけらかんと、楽しく生きながら、けっこううまく世渡りしていっちゃたりする・・・。
と、まぁ、みんながみんなこんなにうまくいくわけじゃないけど、こういうパターンをこちらではよく見る。うまくいかなっかたケースは1代目で児童虐待、2代目で教育ママ・パパ的子供の所有、3代目で心の病・・・なんてことになるのかな。

■2001/04/20 (金) スパルタ教育(い)

ギリシャのスパルタ地方で発生したスパルタ教育というのは元々「優秀な戦士」を作ることを目的としたものだから「戦士」以外は作れないだろう。
私の知人で「スパルタ塾」を始めた人がいて、有名高校とか、大学に次々に合格させるという事が出来た為需要が増え、どんどん生徒が増え、ついにビルを建て「予備校」になってしまった人がいる。世間は彼を「成功者」と呼ぶだろう。ここで作られるのは「受験戦士」であって、大学に入ってから子供が「生き辛さ」を感じ様が、大学に入れなかった為に精神的に病んでしまった人が出ようが、途中でついていけない人が出ようが、それは彼の責任ではないんだろうね。ただ単に「脱落者」と呼んで切って捨てているだけなんだよね。現在の「成功」と呼ばれるものには、たえずこういった「犠牲」がつき物なんだよね。大衆がこの「犠牲」にもっと目を向けるようにならないと「成功者」を誉めたたたえる風潮はなくならないし、なによりも怖いのは、子供達が「自分さえ成功すれば、なにしてもいいんだ」という感覚を受けとめてしまうんじゃないかなぁ・・・・
 この辺に競争社会の怖さがあるし、どんな問題も「成功者」を崇め奉っているうちは解決の方向すらおぼつかないと思うんだ。
 スパルタ信奉者にはこんな背景があるんじゃないだろうか、すなわち「成功者」のみに目を向けていて「犠牲者」には一切目を向けていない所に・・・・

■2001/04/18 (水) 頭ごなしに怒る(M)

「頭ごなしに怒る人」の中にはコントロール魔というのが多いと思うのだけれど、これはあきらかに、すべてを自分の支配下においておかないと、何かとんでもない恐ろしいことが起きるのじゃないかという、病的な不安感を持っているからなのよね。しかしスパルタ教育の信奉者というのは、それとはまた少し違う面があるのじゃないか、とも思うのだけど。自分に従順でない人間をこの世から抹殺したい潜在意識を持っているというよりは、やはりこれは戦争向きの人間形成の名残で、
敵に攻撃されるための予行練習を施しているようなものなのじゃないかな。もとをただせば、これを生き延びれられない者は死ね!という厳しい目的をもっていたものだったのよね。だから、それを今の社会に適用するのは相当の無理がある。しかし、今の社会で発言力をもっている中高年の大多数は、こういうしつけや教育を受けてきた、言ってみれば生き残りなわけで、自分はこうして立派に育ち上がったと信じ込んでいるでしょう。この誤解をどう解くのか、目的が変わったのだ、もはや敵を想定してはいけないのだ、ということがわかるかどうか・・・。
たとえどんなに言葉じりはおだやかでも、恐怖によって人を鋳型にはめようとする教育は自動的に自己否定、自己嫌悪を生んで、その代償としての自分よりももっと悪い人たちを捏造しなければならなくなる、というからくりなのよね。これが戦意高揚にはとても便利なものだった・・・。
旧来のやり方では、子供の人格はおろか人権を認めるという発想すら共存はできないから、どっちかを捨てなけりゃならないはず。どんな子育てをしていくか、ということは、子供だけではなく、すべての人間の基本的人権を擁護するかしないか、という大問題と深い関わりがある、ということにみんな気づいているのだろうか。人権擁護の方をとるならば、どんなに難しくてもその方向で徹底しなければ成果は出ないはず。

■2001/04/13 (金) 寂しさ(い)

寂しいという感情はともすると、軽視されがちなのだが「寂しい」という意識の内側に「不安」という感情が潜んでいて、これが行動化されると、結構いろいろな問題行動になりやすいんだよね。「悪さ」というのもこの「寂しさ」がかなり強い動機になっていると思っているんだ。勿論この「不安」のもっと奥にある潜在意識はここでは、チョット省くけれど、結局は潜在意識が人間の行動の大部分をつかさどっているんだ。だから誰もがもっと「寂しさ」という感情を無視しないように心がける必要があるんじゃないかと思っているんだ。とにかく自分の「存在価値」が知りたくって「悪さ」をしてしまうんだけど、それが頭ごなしにおこられると、かえって「悪さ」は止まらないばかりかかえってエスカレートするものなんだ。そして、自分でももはやコントロール不能な所まで子供を追いやっちゃう事だってありえるんだよね。だから頭ごなしに怒る人はその人の人生を狂わしているかもしれないんだ。でももっと恐ろしいことは、実は「頭ごなしに怒る人」の潜在意識はとても大きな恐怖心を持っているから自分に従順でない人間をこの世から抹殺したい潜在意識を持っているって事なんだ。これが無意識に子供の人格を踏みにじっているんだよね。結局は子供の人格を認められれば適切な対処が出来るが、実は「認めたくない」感情がある限り、よけい難しい事になっていくんだ。でも今の時代は「頭ごなしに子供を怒る」って事に対して「容認する」ような社会的風潮があるんだよね。最小限これを認めないような社会的コンセンサスが必要じゃないんじゃないだろうか?と思うんだ。「甘やかす=悪い事」みたいなものをなくせたらなぁとか思うんだ。
例えば悪さをする子供を見ると「親のしつけがなっていない」なんてコメントする人をなくして「親がしつけすぎる」って言う人を増やせないかなぁ・・・とか思っているんだ、そうすれば少しは虐待も減ってくるんじゃないかとか・・・・
要は親がもっともっと子供を甘やかせて「寂しい子供」を減らしていきたいなぁと言う事なんだけど・・・・・

■2001/04/12 (木) 大人のイライラ(M)

「自分のイライラ」を静めるために怒っている、と自覚している大人は少ないだろうけど、ま、仮にそれができたとして、大多数の大人はできそこないなわけだから(^^)、怒りたくなっちゃうわけよね。そういうときに「今スッゴク機嫌が悪いんだから、あっちへ行け!」とか言ったらどうなのかなぁ。
実はわたしはよくそれをやったのだけど・・・(^^
子供が小さいときは別だけど、中学生、高校生くらいになると、彼らの行動がひとりの人間としての親に与える影響--つまり、決めた時間に帰宅しなければ無用の心配する、それは不公平である、とか--そういう視点から話合う方が通りがいい、といわれたのだけれど、確かにその方が効果はあったみたい。もっとも、これも小さいときからの積み重ねがないとうまくいかないのだけれど。そもそも心配させることが目的でやっている行動だったりするわけだからねぇ。

■2001/04/09 (月) 悪さをする子供(い)

悪さをする子供は「してはいけない」と言う事を知らないから、やってるわけではないんだろうね。というかむしろ「してはいけない事」だからやるんだと思うんだ。だから、いっくら「こうしてはいけない」って事をコンコンと諭したとしても、彼等は「そんな事、とっくに知っている」わけで、もちろん彼等自身「何故自分は悪い事を悪いと知っているのにやってしまうのか」理解出来るわけもないので、反論も出来ないわけだよね。理屈から言ったら校長先生の方が「正しい」に決まっているが、彼らの心の中では「ちがうんだよ~っ!」ってのがあるんだと思うんだ。でも説明は出来ない。それを頭ごなしに怒られても「聞く耳」はもちそうにないと思うんだ。人間に限らないけど、あまりにも怖すぎるとドーパミンがでちゃうんだよね。だから、時には怒られているとき「ニヤニヤ笑っちゃう」子供も出てくると思うんだ。そんな事を考慮にいれると「頭ごなしに怒る」ってのはやっぱり最も効果の薄いものって思うんだよね。でもその効率の悪い事をやってしまう大人の本当の目的は「自分のイライラ」を静める事だけなんじゃないかなぁ・・・・
で、そういう場面を目撃した大人が、子供の方に問題があると一方的に感じてしまうのが問題なんじゃないかと思うんだ。
 大人になると権威に対してやさしすぎるところがないわけじゃないよね。
悪さをする子供というのを一般的に他の子供と区別してしまう傾向があるけど、実際はほとんどかわりないよね。彼等に実際に接してみると、むしろ他の子供たちより人間的(表現が悪いけど、なんとなくニュアンスでとらえてね♪)なことの方がおおいんだよね。彼等が最も嫌うのは、子供の人格を認めない大人なんだよね。だから、子供の人格を認める人にはおどろくほどなついてくるんだよね。ものすごいさみしがり屋の彼等をどう取り扱うのかは、この辺にヒントがあると思うんだ。まぁ実際ににぶつかると結構難しい所がないわけじゃないんだけどね。特に権威に逆らわないように、なんて思ったらもう駄目かもしれない・・・・

■2001/04/08 (日) 何が効果的なのか(M)

なんだかまた頭がこんがらかってきちゃったので、少し具体的な話に戻してみよう。多くの人が関心のあることのひとつは、やはり親や教師やそれに準ずる大人として子供とどう対処するか、じゃないかと思うのだけど、以前、小学校の図書室で仕事している友人がこんな話をしてくれた。理由は忘れたけど、3年生くらいの男の子が校長先生からガミガミ叱られていたのだそうだ。それもかなり激した叱りかたで、そばで聞いていた彼女は「あんなに言わなくても良さそうなものを。可哀相に・・・相当にこたえるだろうな」などと思っていたのだそうだ。ところが、校長がプリプリして図書室から出ていったとたん、その子は平静な顔で「校長先生は最近ひげをはやしはじめたんだね」と言ったという・・・・・・・
まったく耳に入っていなかった・・・のでしょうねぇ?!?

■2001/04/05 (木) 守り(い)

うん、大切なものを守るのも必要だけど、何から守るのか?っていうのも良く考えた方がいいのかもしれない。そして、ほとんど自動的に幼児期の「守り方」が身についてしまっているので、それがかえって守りにならないばかりか、自分を苦しめているかもしれない、って事だと思うんだ。
 まぁ、端的にいえば「守り」にエネルギーを費やしすぎると心にゆとりがなくなって、肝心なものが見えなくなって、かえってなんにも守れなくなっちゃうよ。って事かなぁ?
 そういえば、昔僕の話を聞いたある人が「君の言ってる事は、崖の木に必死につかまっている人にむかって、手を離せば楽になるよ、っていってるみたいなものだよ」って言われた事があったなぁ・・・・・・
 そうなんだ、きっとそうなのかもしれない、だから「手を離せ」とは言えないかもしれないが、とりあえず「怖がらずに、下を見てご覧、足がとどくかもしれないよ」って、怖くって見れないものを見てもらおう、ってところかな?
 見るだけならいいんじゃないのかなぁ、そうすれば、自分がどんな状況になっているのかがわかるかもしれない。

そういえば、僕の友達にもいわゆる「グレていた」人結構いるんだよね。犯罪まではとても推奨できないが、ギリギリのところでグレるのは、とても自己修復には向いているのかも知れない。「肝心なあるもの」を取り戻すためにも。

 

 

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