交換日記過去ログ1

 

■2001/04/03 (火) 完璧主義

わたしが完璧主義だなんていうと知ってる人は大笑いするだろうけど(^^)、
あるのよねぇ・・・どこかでそれを目指しているところが・・・おそらく父親の厳しいシツケが原因だと思うけど。まぁ、今ごろは、40代で死んじゃうような人(わたしの父は45歳で他界した)は人知を超えたことを言い放っていてもなんとかつじつまを合わせていられただろうさ、と居直っているけどねぇ。
わたしが自分の半生を通して学んだ事は、自分自身は生育環境の影響でいろんなものを引きずっているけど、それを基準にして他人に押し付ける事はやめよう、ということだったと思うんだ。だから、自分は自分の病気のせいでいろんな犠牲を払っているかもしれないけど、それに対して「わりにあわない」という気持ちを持たずに、「責めたい気持ち」を解放してしまおうといところかなぁ。まだ若い頃に
誰かが言ったのだけど、「自分の人生を思いっきり生きなかった人間は、意地の悪い年寄りになる」って(^^)その言葉が妙に印象に残っている。実際、わたしがシングル・マザー時代に苦労しているとき、力になってくれた人たちの中には、若いころ、昔の基準でいえばグレていたとみなされるような年輩の女性たちだったよね。大切なものが何かを知っていた人たちだったと思う。
「守り」を解除するためには、自分にとって何が本当に「守りたいもの」なのか、何が
大切なのかを知ることも必要なのじゃないかしらね。

■2001/04/03 (火) 備えも武器も捨てる(い)

基本的には「怖さ」というのは、なかなか解消できるものではないが。他人に責められる「怖さ」というのに、備えたり、責められた時に反撃したり出来るように備えていると、その備えが自分を傷つけたり、もっと怖くなったりするんだけど、そこのところを「理解する」のが必要かもしれないんだ。
例えば、自分を責めてきそうな相手に対して、先制攻撃をしたら「そういう貴方はどうなんだ?」って反撃されたら、困るなぁ・・・・とか思っていると。
なんとか、そういう反撃をされないように自分は完璧にしなくっては、と思ってしまうんだ。これが「完璧主義」の構造なんだけど、身の回りを含め、どこから見ても自分は立派だと思ってるだけならいいんだけど、そうなるには色々なものを犠牲にして努力しなけりゃならないんだよね。そうするとなんか自分だけ「わりにあわない」ような錯覚が生じて他人を責めたくなるんだよね、「だらしない」とか言って。
で責めちゃえばまだ楽にはなれるんだが、「責めたい」気持ちを抑えたままでいると、特に「人を責めてはいけない」とか思っていると「人を責めたい自分」を認めることが出来なくなって「責めたい気持ち」がいつのまにか他人に投影されちゃうんだ。
これが怖い・・・・・誰かが何かを言えば「私の事を言ってるのではないか?」とか「私を悪い人間だといってるのではないか?」とそれこそ疑心暗鬼になっていつもとげとげしてしまうんだよね。そうすると、周りも「怖くなって」なんとかそういう人を遠ざけたいと思ってしまうので、本当に責められちゃうんだよね。
これは悪循環。怖いものに対して「責めたり、逃げたり、守ったり」すると、本当に怖いものがやってくる。って事なんだ
だから、ちょっと大変だけど「守り」を解除するのが一番良い方法だと思っているんだ。

■2001/03/31 (土) 補足(い)

いや書きこんでから、見なおしたら、なんかかなり誤解されそうなので補足をいれとこう(;^^A
僕も怖い目にあったら、そりゃぁ怖いよ(^^V
膝がガクガクしたりして・・・・・・・
でも何故か「どう対応したらいいのか」という頭は回るみたい(゜゜)?
多分「怖がったり」すると受動的攻撃になっちゃうんじゃないかなぁ・・・・

あれ?なんかフォローになっていないなぁ
いかん、もう少し考えてから書けばよかったかなぁ(^^ゞ

■2001/03/31 (土) どうなんだろう?

教えて、とか言われると、結構難しい (;^^A
僕はスポーツは苦手だ、みるのは嫌いじゃないけど、やるのがまったく駄目
それなのに前に「格闘家の雰囲気がある」とか言われた事がある(;^^A
そういえば「暴力団の幹部の雰囲気がある」とも言われたこともあったっけ。
自分では信じられない事だけども、どうもなんか他人を威圧するような雰囲気があるのか?どうにもよくはわからないが、格闘家も暴力団幹部も「やりとげた自信」みたいなのがあるのかなぁ・・・いや「ここまでくればもうなにも怖くない」って感じなのかなぁ・・・・・いずれにしても「ゆとり」があるのかもしれない。
僕は勿論取っ組み合いのケンカをしたことがないし、兄弟けんかは子供の時よくしたけど、勝ったためしがないし(弟にも)まったく自信はない。
やっぱり僕って不思議な人間なのかなぁ・・・・・・?
自分を振り返ってみると「未練を持たない」って事かもしれない。「人を責めない」ってのも関係あるのかなぁ・・・・まぁ誰でも人間は「馬鹿にされる」のが嫌いだから「上下感を持たない」ってのも必要かも。
怖がりな人ほど怖いから「怖くないよ(^^)」って雰囲気作りが必要かもしれないよね。なんかいつのまにやら人生の達人になっていたりして (^^ゞポリポリ
良くは纏まらなかったけど「自分の事」だけで精一杯になってると、色んな物が怖くなっちゃうのかもしれない、自己修復をして「こころのゆとり」が必要なんだろうなぁ・・・・・・

■2001/03/30 (金) 受け入れる(M)

たいていの人は「受け入れる」どころか、「弱みをみせるとつけあがる」というふうに考えていると思うのだ、確かに怒っている相手に怒りで反応しなくても、あきらかに脅えている態度をとってしまうと、それもまたうまくいかないということがあるのではないだろうか?この場合は、恐怖の裏返しで怒っている相手の恐怖心を、自分の恐怖心の表現によって刺激することになってしまうのだろうか。
みんながみんな、昔の剣豪みたいな境地で対処できればいいけど、そうもいかないよねぇ・・・わたしは個人的な人間関係のときならほとぼりをさますという方法をとることが多いけど、こういう状況ではどのみちたいした恐怖心を抱いているわけじゃないからできることなんで・・・。どうすればいいのかな。おしえて!

■2001/03/30 (金) 感情移入(い)

ほとんどの人が「他人の感情、がわかってる」と思っているらしいけど、実はほとんどわかっていないらしい。子供がお人形さんやなんかに感情移入して、あたかもお人形さんに感情があるような、気がしているのと同じように、大人になっても他人に自分の感情を移入して「この人は、こう感じている」って確信している場合が結構おおいんだよね。
だから、怒りっぽい人って他人がみんな、すぐ怒ってくるような錯覚をおこしやすくって、結構人間関係に支障がくるんだ。
もっとも「怒りっぽい人」ってのあはものすご~い「こわがり」だから「怒って」他人を撤去しようとしちゃうんだ。でもこれでは悪循環で、自分の防衛のための怒りが他人に投影されて、ますます怖くなっちゃうんだ。だから、他人に対しては
多少怖くっても「受け入れる」様に努力すると、結構本当に怖くなくなるんだよね。
僕なんか、言葉は悪いけど「ヤーサン」なんかに結構なつかれたりするんだ。
彼等は「怖いから」(自覚はないが)他人を脅かして自分を守っているんだよね。
それを、怒りで「無いものにしよう」とすると、ますます大変な事になるんだ。

そういえば、彼等は「働いていない」事の証明に「生活保護」を受けとっているんだよね。収入がないから税金をはらわない、では通用しないから、収入がないから生活保護を受けている。・・・・・
ヤーサンから聞いた話だけど、フ~~ンって感じだけど、結構頭のいい人が考え付いたんだろうね。
だいぶ話がずれた(;^^A

■2001/03/26 (月) 疑心暗鬼

わたしも若い頃はよく「世間知らずだから」とかいわれて、心配してくれる人がまわりにいたものだけど、当時、「世間知らずのためにだまされる」事実よりも、疑心暗鬼になって迷っていたり警戒している時の心の負担の方がずっと大きい、と気づいた。わたしはご存知のようにうつ体質だからこうゆうことがひどく辛い。それである時期からすっぱりと疑心暗鬼を止めた。だましたければだましやがれ!という態度に切り換えた(^^)
ところがおもしろいことに、そう腹をきめると自然に自分の言動が正直になるから、かえって災いが遠のく・・・本当に大きな災いなんて、向こうの方ではなっからこっちをバカにして近づかない(^^)
まぁ、世の中、そう単純なものではないけれど「人の反応に反応する」ということを止めるだけでずいぶん状況が好転する場合がある。人間関係などの場合はとくに、
自分の側から一方的に「この人を傷つけるようなことは、自分の側からは絶対にしない」とか、いったん決めて、些細なことに反応しないようにすると、ときには時間がかかることがあってもたいていうまくいく。
これはたぶん、こっちの思惑が投影される結果なのよね?
自分の気持ちもとても楽になるし、非常に効率のいい方法だと思うのだけど。
うちのおばあちゃんは「何事も善意に解釈し・・・」というのが口癖だったけれど。
今になってその言葉の重みがわかる。ときどきはずれたとしても、いつもいつも
疑心暗鬼になっている心の負担と秤にかけたら、わたしはバカでけっこうの方を取っちゃうヨ。

■2001/03/23 (金) 罪責感(い)

この話を聞いて(読んで)もしかしたら「父親も子供も社会的に立派になったからそんな事が言えるんだ」と感じる人もいるかもしれない。だけどそうじゃないんだ。親の子を思う気持ち、この親を想う気持ちははかりしれないほど強いものがあるのだ、と言う事を誰もがもっと知ってほしい。特に親が「子が自分のいうことをきかない」という表面的な現象で子を疑ってしまう事は深刻な問題を引き起こす可能性がふくまれているんだ。僕が本の中で言及している潜在意識の「あまのじゃく」は表面だけで処理しようとすればするほど逆効果になっていく現象を理解して欲しかったんだ。しかし、勿論だからといって「表面的にしか考えられない」事が悪い事だと言ってるわけじゃない。
人類は戦争をやりすぎたのだ!!!!
原因はただそれだけ。今の平和な時代に生まれ育った人には「ピン」とこないかもしれないが、原因はここにある。そして、誰の「せい」でもないんだ。
戦争をやりすぎた為に「他人は基本的にみんな敵」という感覚が潜在意識にすりこまれ、それが先祖代々「しつけ」という行為によって引き継がれているにすぎないんだ。「内省」を含めそれを「理解する」と言う事がだんだんと事態を好転させる鍵になるだろう。
何故人はなにかあると「人のせいにしたがるのか?」という所を深く考えていってもらいたい。そこには「自分」と同じではない「他人」を見ているから、自分に罪がかかってくるのは「いや」でも他人に罪がかかるのは「いやじゃない」から、罪をなすりつける事が可能なのだ。それは「他人は基本的にみんな敵」という感覚を持っているから。勿論何度も何度も確認しよう。それでもなお、それは悪い事ではないんだ。人類が戦争をやりすぎたせい!!
そして、困った事に「ひとのせいにして」怖さから逃れ様とすると、その潜在意識が他人に投影されて「人は誰でも他人のせいにしたがるものだ」と言う感覚が生じて、ますます「殻を閉じなければならなくなって」しまうんだ。
逆に利用すれば「誰も悪くない」と、こころで描く事が出来れば、それが他人に投影されて「人は皆、だれも悪者にしようとしていないんだ」と言う感覚が生じて、とても社会が生きやすくなるんだ。(^^V

■2001/03/23 (金) 誰も悪くない(M)

「誰も悪くない、みんな癒される必要があるだけだ」ということを理解するために参考になるかもしれない文章をのせてみよう。これは「ナマズとマンダラ」というベトナム系アメリカ人が書いた本なのだけど、著者は父親をこう描写する。
***********************
「彼は論理の人で常に修正と改善をしつづけるプログラマーだった。知性と情熱と強靭な意志を合わせ持った典型的ベトナム人だった。詩人であり、優秀なフランス語翻訳家であり、ギターでクラシック音楽を奏でることもできた。そして、僕が学生時代に絵描きになりたいと言った時は猛反対されたから想像だにしなかったが、彼自身がすぐれた絵描きだった。波乱万丈を強いられた男の人生で、これほどの才能を開花させ得たのだ。横暴な貴族階級の父親の長男として生まれ、十代で母に死に別れ、戦争と飢餓を生き延び、ベトコンから逃れて土堀り労働者となり、学者としての名誉に輝き、親の反対を押し切って恋する女性と結ばれ、公務員、兵士、国民党の将校となって家族を養い、数学教師となり、事業家になり、共産党政権の囚人となり、逃亡者となり、無一文の難民としてアメリカに渡り、掃除夫をしながら夜学に通ってコンピュター・プログラマーになり、ソフトウエアー・エンジニアーになった。そんな中で、娘が家出し、十四年後に男になって帰ってきたと思ったら、自殺してしまった」
その父が「親父は横暴な男だった。自分も虐待された子供だったんだ。だから虐待する親になってしまった」と吐露した時、著者は、「そんなことを言わなくてもいいんだ」と心の中で叫ぶ。それじゃあんまりじゃないか、父さんは古い世界から来た人だったんだ、僕のようなアメリカ人じゃないんだ、児童虐待なんていうアメリカ的な概念で自分を責めないくれ、息子の自分が救われただけで十分だ、と思うのである。著者の弟たちはそれぞれ医師、弁護士となって両親の夢を体現するが、二人ともホモセクシュアルである。著者は「父さんが厳しく躾たせいじゃないんだ。勉強ばかりさせて女の子とデートする暇がなかったからゲイになったわけじゃないんだよ」と慰めるのである。
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この父親は、これだけの人生を生きてきて、なおかつ自己を内観する強さを持っていた。逆にいうとそれができなかったら息子も癒されなかった、そして暴力のサイクルが継承されていっただろうけど。

■2001/03/22 (木) 冤罪だらけ(M)

アメリカでは冤罪問題は人種差別とも絡まっているから非常に深刻。
法の下の平等といっても、現実的には有能な弁護士に払う財力のあるなしで決まってしまうケースが多いからね。冤罪で死刑になったケースも頻発しているので、死刑に反対する運動の重要な論点になっている。犯罪の取り締まりを強化するという方向で社会をコントロールしようと思ったら、国民ひとりひとりに義務教育で法律
の基礎知識を叩き込んで、自衛できるくらいにしないと冤罪と戦うために人生を費やす人たちがたくさん出てくるだろうな。
痴漢の冤罪とは逆の立場だけれど、わたしは自分の娘に「万一職場で執拗なセクハラを受けたら隠しビデオに撮ってでもしっかりと証拠をつかみなさい。でないと裁判のためだけに長ーい苦しい時間を何年も費やすことになる」と言ってある。法律によって公平な判断をしてもらうためには、客観的な情報をきちんと提示できなければどうにもならない。裁判というのはそういうものなのだから。
だから、犯罪の取り締まりを強化していったときの負担を考えたら、もっともっと犯罪予防にエネルギーを注ぐべき。できることはたくさんあるのだから。そしてもちろん、冤罪であろうと確信犯であろうと、服役したのち社会復帰する人たちの心が、入所前よりも荒廃していたのでは意味がないよね。
結局、これはとても難しいことだけど、犯罪を犯した人でも子供を虐待した親でも、もっといえば国を傾けるような愚かな政治をやった人でも(^^)、人が人を裁断するということを止めなければ、必ず最後に「こいつだけは処分してもいい」みたいなスケープゴートが必要になってくるのよね。たとえそれが世界中にたったひとりでも、そういう存在をつくってしまうと「自分がそうなったら」という恐怖感が生まれて、罪のなすりあいのサイクルをまた2000年ほどやっていかなきゃならなくなる。誰も悪くない!人類は全員セラピーが必要だ!というのが実は真実だろうと思うよ。これをやるのが宗教のはずなんだけど、既成の宗教がまたひどく昏迷しているからね。でも方向性としては人間の内面をみつめていくしかない。しかし、社会のピラミッドの上の方にいる人は当面、自分の内面に目を向けることなんてできないだろうから、スケープゴートになっている人の心を癒していくしかないでしょ。スケープゴートがどこにもいなくなったら、アッと驚いて考えはじめるかな。

■2001/03/22 (木) 冤罪(い)

話をいきなり、変えてしまって申し訳ないが(;^^A
昨日テレビで痴漢の冤罪が増えていると言う話を聞いてしまった。
チカン被害の届けがあって、警察で「容疑者」が否認をすると、いきなり逮捕されてしまうのだそうだ。それは痴漢犯罪を軽く処理すると警察が非難されるから。
冤罪を受けた男性はほとんど「泣き寝入り」状態らしい。でも裁判まで持ちこんで2審でやっと無罪を勝ち取った人が出てきたが、職を失い、裁判費用に2000万円もかかったそうだ。さらに悪質な女性がいて痴漢詐欺も結構横行しているという話なんだ。
冤罪ってのは結局「法で規制する」という限界を示していると思うんだ。一時期日本で女子高生の「援助交際」が問題になって法が整備され未青年の「買春」が罰せられる様になって、静かになったが、僕はなくなったとは思えない。ずっと目立たなくなっただけだろうと思っている。でも法を強化する事の怖さはやはり「冤罪」ではないだろうか?昔の「つつもたせ」みたいなのが、法が整備されるとずっとやりやすくなるのではないだろうか?
そういえば、前にもアメリカで麻薬の売人とそれと知らずにつきあっていた女性が同乗していた車から「麻薬」が発見されて逮捕され、かなり重い刑罰にあってしまった話を聞いた。
これからの社会は「罪」を「罰」で償うのではなく「セラピー」を受け精神を「健全にする」というやりかたが、もっと必要になるのではないだろうか?冤罪でもともと健全な人はセラピーを受けてもなんら心配はないわけだから。
そんな意味で、アメリカの「アミティ」運動は注目するに値すると思っているんだ。
そうそう、アメリカの麻薬の事件でインタビューに答えた「検事」の言葉が印象的だった。「法律は法律だから、罪は罪です」・・・・・・・
かくされたうつ病の人は「悪者が罰せられる」という現実がないと・・・・
すなわち「悪者」というスケープゴードがないと生きていけないんだよね。

■2001/03/21 (水) こわれているという自覚(M)

「こわれていないものを直すな」という言い回しが英語にあるけど、こわれているという自覚がなければ直そうという気になる人はいないよね。
わたしのまわりにもたくさんいるけど、社会的に成功した、一見人も羨む夫婦で、
立派な家に住んでいて・・・でもなぜか子供が荒れている・・・というケース。
こういう場合は一方的に「出来の悪い子」とか「悪友の影響」とかでかたづけられてしまうけれど、家族はひとつの共同体であり生命体だという風にとらえれば、だれかひとりだけが悪いということは有り得ないのよね。良い悪いの問題ですらないのだということなのだけど・・・ひとつには立派な人ほど「自分はこうしてうまくいった」という自信があるために、どうしても「これが良いやりかただ」という独善に走りやすい。自分の子といえども独立したひとりの人格だ、ということが見えにくくなる・・・同時に自分の価値観への社会的評価が高ければ高いほど、それが否定されたときの実質的被害も大きいわけで・・・
わたしの友人たちはみんなもうけっこうな年になっているわけだけれど、まぁ、
心の病への認識は浅いというか、ほとんどない、に等しい時代に成長したわけだから、今の言葉でいえばアダルト・チルドレンの問題を抱えていた人がたくさんいる。そのためにアメリカに来た日本人(とくに女性)も多いかもしれない。
で、かれらの親たちーー生きていれば70、80代だけれど、自分の子が国を脱出してまで血反吐を吐くような思いで生活のため、自分の心の平安をえるために戦ってきた、なんてことを想像うできる人は少ない。親が年をとってきたのに帰国して
介護しようとしない親不幸者、くらいにしかとらえていないね。あ、これはわたしのことじゃないのよ。念のため。うちの母はとても理解ある人。早く母の介護ができるようになりたい・・・ほらね、親子関係が良ければ、こういう気持ちになるものなのよ(^^)。ちょっと話がずれた。

■2001/03/20 (火) 続ココロのやまい(い)

はぁ・・・あせった・・・(;^^A
最近PCがいきなり切れて、青い画面になにやら文字化けの字がでてきて「Enter]押すとなにごともなかったように戻るんだが、念のため終了して立ち上げると、例のスキャンディスクとやらが出てきて、さらにご丁寧に「Surface Scan」がでてきて、30分くらい使えないのだ。たぶんビールスのせいだと思うんだ。
そんな事は\(^^\)オイトイテ(/^^)/・・・・・どこまでいったけ。
そうそう、そんなわけで、私も結構ひどい親になっているのだエバリ!( ̄^ ̄)☆\(ーー )エバルナ!

ただ今の時代は前よりはずっと良くなったとはいえ「精神的病」に対する偏見が多いのも、問題解決を困難にしてるよね。自分の子がとか自分が「精神的病」だって子とが見とめられなくなっているのは、それだけ「偏見」があるって事なんだよね。うん、「かくされたうつ病」になってる人なんか特に「差別感」が強いから、よけい大変なんだと思うんだ。このへんは、とっても難しい問題だなぁと思うんだ。
なにも立派な親じゃなくっても、人は知らず知らずのうちに「立派な人間」ってのをめざしているんだよね、強迫観念で。だから、自分が「立派じゃないかも知れない」って感じさせるような場面では思いっきり「拒絶」が生じてしまうんだよね。
「オイオイ、そこまで、完璧じゃぁなくっても」って場面にはよく遭遇するんだけど、本人は背後に強迫観念があるから、そっとしとく以外に方法はないんだよね・・・今のところ。
このへんをどうアプローチしていいのやら、う~~ん・・・・結構難しい。

■2001/03/20 (火) ココロのやまい(い)

僕は27の時最初の子供(娘)が出来たんだけど。やっぱり、なにがなんだかわからないまま育てていたよね。人間の心の研究を始めたのが45過ぎてだから、勿論その前から、それなりに自分のオリジナルな考えがあったけど。娘には結構申し訳ないことをしてきたなぁ、って感慨はあるよね。もう結婚して、こどもも2人いるし、最近はまったく姿見せていないから、どうなってるのかもわからないけど。
まぁ彼女からいわせれば、結構ひどい父親だったんだろうなぁとかも思うんだ。
いきなりPCが変になったので、一旦投稿しとくね。


■2001/03/19 (月) 家族セラピー(M)

心の病のほとんど、とくに若年層の荒れや心身症などは家族セラピーでなければどうにもならないだろうと思っている。これは親をセラピーに駆り出してきて
「悪い親だ」なんていうことじゃなくて、親自身の行動にもそのまた親から引きついださまざまな痛みが(意識しないながらも)あって、それを子供が認識していく、家族みんなで、決して完璧ではない自分たちを共同で癒していくということなのだよね。「反社会的な行動をしているのは自分じゃない!」なんて言って、セラピーへの参加すら拒む親が子供に与える傷の大きさは、はかりしれない。

セラピストは、とくに来談者中心という考え方が広まって以来は、患者をどんな形であれ価値判断しないことがセラピストのもっとも重要な姿勢になっているはずなのだけど、実際にはどうなのかな。
わたしはセラピーを受けたことはないのだけど、うちの娘はしょっちゅう学校の
カウンセラーと話していた(^^)わたしの場合は彼女の成長期に離婚や再婚や、子供にとってかなり辛いだろう、と容易に想像のつくことを親がやってきたわけだから、いっぱい文句があるだろうなぁ・・・という気分を自然に持っていて、そういうわたしに対する感情的しこりはわたしと話しても解決しないだろう、と思っていたから、わたしの友人なんかで親が離婚した経験をもつ人たちに、娘の話相手になってくれ、とこっちから頼んでいた。ときどき電話でさんざん悪口いってるのが聞こえたこともある(^^)娘のほうもそういうこと(内容までは言わないけど)を別にかくすわけでもないから「またやってきた」「そうかい、すっきりしたかい」みたいな感じ。当時ははっきりと認識していなかったけど、わたしは親の役割というのは
なにからなにまで立派になることじゃなくて(そんなことできるか!)自分にできない部分をやってくれる人を探す、あるいは子供自身がそれをすることを許容してあげることだと思っていた。自分は不出来な親だから、という気分がなかったわけじゃないけれど、内心では「こういう親がいい親なんだ!」と居直っていた面もあったかも(^^)

■2001/03/19 (月) 問題解決(い)

タイトル後から入れようとして忘れた(;^^A
で、言いたい事いいきれてないみたいだから、連続投稿(^^V

いじめっ子は「悪い事」と知らずにやってるのではなくって「嫌悪感」から、どうしても、行動しちゃうんだよね。いわゆる「あいつなんか、むかつく」とかいう奴なんだ、で、この嫌悪感の怖いところは「行動化」しないでいると、いわゆる我慢をしていると、精神的にまいっちゃうか、または身体化して病気になったりしちゃうんだよね。だから、いじめっこを「やめなさい」ってとめるのはいじめっこをいじめてるのとなんら変わりがなくなっちゃうって事なんだ。すなわち「いけない事」を止めさせるのに「いけない事」をしなくちゃなんなくなっちゃうって事。
そうなると、どっちの味方みたいな方向に向いちゃって、根本から目がそらされちゃうんだよね。
例えば、例はわるいかもしれないが、精神的病になってる人の「母親への怒り」を対処するのに、医者又はセラピストが母親を怒っちゃうのは、ちがうんじゃないかなぁ・・・って事なんだ。患者の味方をしたら、母親が敵になっちゃったりして、これは変なはなしなんだ。
いじめられっこの味方をするんじゃない、しかし彼の心情も大切にするってスタンスが必要なんだよね。
だから、セラピスト(医者も)には充分な「感受性」が要求されるべきなんだよね。
いやぁ・・・書いてるうちに、やっぱどっかそれてくなぁ・・・

■2001/03/19 (月) (い)

それそれ(^^V
勿論僕は「しつけをしてはいけない」なんて言うつもりはないよ。でも沢山の人に「しつけ」という中に、かなり子供を精神的に追い詰めるものがあるんだ、って事を理解して貰いたいんだ。「いじめ」の問題が難しいのは「しつけ」が合法化されてるってことなんだよね。多少しつけで精神的に痛めつけられた子供でも「感受性」がそこそこ育っていると「他人の感情」を感じる能力が育っているから、そんな感じでなんらかの「おもいやり」が生じる可能性があるんだよね。ところが、追い詰められすぎてると「自分の感情」だけでイッパイイッパイになっちゃうんだ。
だから「いじめはいけない」という事ではいじめをなくす事なんてできないよ。って事だと思うんだ。まぁ従来人類は(大きく出すぎてるかな?)「いけない」とか「悪い」とかまぁ「罪と罰」みたいなもので、問題を解決しようとしていたけど、僕は「そうじゃないんだ、それでは問題は一切解決しないんだ」って立場をとっているわけなんだ。だから「いじめはいけない」とか「虐待はいけない」ではいじめも虐待もなくす事はできないんだよね。(これは自信をもって断言出来る)
で、なくせないばかりか、へたをすると増やしてしまうんだよね。「いけない」を強化すると、こんどは「潜在化」してもっと陰湿になったりするんだよね。さらに「冤罪」が増えてしまうんだよね、それがこわいんだ。
だから前にMYさんが言っていたように「いじめっこ」を罰するのではなく、家族セラピーが出来るのが望ましいと思っているんだ。その点が、従来の「いけない」だけでなんとかしようとしている人達に理解してもらいたいんだよね。
そうそう、こないだも児童相談所の職員が、母親に「あなたはひどい母親だ」とか言ってた話聞いてて、胸がいたんだんだよね。「ちがうんだっ!」って叫びたい。
ちょっと千字にまとめるのって、結構難しい、勉強になるかな?

■2001/03/18 (日) 嫌悪感

わたしはセラピストでも研究者でもないから、自分自身を子細に観察したり分析したりしてわかってきたことから類推することが多いのだけど、自分が嫌悪感からとった行動というと、こうゆうのがある。小学生のとき、隣の席の男の子に無性に嫌悪を感じて(^^)・・・つまり、その、彼が削ってある鉛筆がないから貸して、とかいうと「貸したげない」とかいいたくなる・・・きっと怒るだろうと思っていると、しおらしくうつむいて黙っちゃう・・・するともっと冷たくあしらってしまう・・・それなのに、翌日、きれいに削った鉛筆をわたしにくれたりして・・・ある日、理由もなくわたしが彼の下敷きをバリバリっとこわしてしまった。そしたら彼は目にいっぱい涙をためて黙ってしまった。そのときさすがに申し訳なくなって「ごめんね」といって、あとで新しい下敷きをお返ししたの。以来、仲良くなって、よくうちにフナとかトカゲなんか持って遊びにくるようになったのだけど・・・どうしてあんなイジワルしたのか・・・ゴメンネ、ゴメンネ・・・
まぁ、子供が誰でもくぐりぬけるもの、といえばそれまでだけど、イジメというのはこうゆう状況で反省もできずに突っ走っていく、ということだよね。じゃ、なぜわたしの中にあんな嫌悪感が芽生えたのか・・・実はわたしの姉も、これとほぼ同じ体験をしたと言っていた。なにかこう、無力にみえる人に無性に苛立つ、という感情があったみたいね。つまりこれは、無力な自分に対する嫌悪を投影していたことになる。なぜ子供が自分を無力に思い、嫌悪するかは・・・「まともな人間につくるためのしつけ」というものが自動的にそれをするのだろうな。うちの父は子供にかなりのスパルタ教育をしたのだけど、わたし自身は体罰は受けなかった。でも、たとえば、6、7歳のときに「目つきが悪い」とか言って鏡の前に半日座らされたことがあった。父はしょっちゅう不機嫌になる人で、そういうときに子供がうるさくすると、じろーりとにらむわけ。わたしとしては、その目つきをマネたつもりだったのよね(^^)だから、親のマネしただけなのに理不尽だなぁ、なんて思ったけど。ああゆうときに「どうしてそんな顔してるんだ」と聞いてくれたら、もっと建設的な対話がうまれたかもしれないよね。

■2001/03/15 (木) 嫌悪感(い)

そう!それっ!!
しつけ等で自分の中の感情を抑圧しちゃうと(ここで言えば「怖がる感情」)それを表現している人間を「嫌悪」しちゃうのよね。「やだっ!」って感情は「なんで?」って疑問の余地がないくらいその人の「好み」とか「性格」の問題として扱われるけど、勿論生まれつきの性格とかあるけど、しつけ時の「おしおき」とかいろんな強迫観念でできている場合が結構多いんだよね。通常は意識しないけど、無意識に「いやなもの」を排除したい感情が沸いてきて、色々な合理化のもとに「いじめ」とか「虐待」がおこっちゃうんだよね。だから、これはとても重要な問題だと思うんだ。「いじめはいけない」とか「ぎゃくたいはいけない」といった事で解決する問題じゃないんだよね。僕が観察している範囲では、どうもこの「嫌悪感」というのが、色々な問題の「根(Roots)」じゃないだろうか?と思っているんだ。
だからこそ「自覚する」というのが必要かな、とか思うんだ。まぁうまい具合に優秀なセラピストにあたった人はラッキー(^^V・・・・・・って状況から、あたりはずれのないセラピストが沢山必要なんじゃないかなぁ・・・・。
自分だけで自分を見つめていくのって、結構大変だからね。
う~~ん・・・・色々な考えがでてきて、うまくまとまらないや (^^ゞ
どうしよう、もう少し考えをまとめてみよう(^^)

■2001/03/15 (木) 男が臆病になるとき

このあいだ話した新しい翻訳候補の本の中に、こういう部分がある・・・、これは原文を短くまとめただけだから、こういうプロセスの大切さが今ひとつわかりにくいだろうと思うけど・・・ま、ヒントにはなるかも。

経営コンサルタントとして成功したスティーブは、女性との関係が長続きしないことで悩んでわたしのセミナーに参加しました。彼の影を探すきっかけになったのは、彼が参加者に中の男性のひとりを「臆病」と感じて嫌悪していることを発見したときでした。そこから彼は5歳のときに仔馬に乗るのを恐れたために父親から「臆病者」と呼ばれてお仕置きされたことを思い出しました。わたしは彼に、今でも自分の中で臆病な部分があると思うか、と聞きました。しばらく考えていた彼は、女性と正直な語り合いをもつことを恐れている自分、そのために自分から関係を断っていたことに気づきました。
次にわたしが、これまで自分が「臆病」だったために得をした経験を思い起こしてほしいとたずねたとき、彼は、酔っ払っい運転をして豪遊しようとしている友人たちの仲間に入らなかったために命拾いした体験を思い出しました。
こうしたプロセスを経て、スティーブは「臆病」な自分もまるごと抱え込めるようになりました。セミナーの終わりに、彼が「臆病」と決めつけてっていた男性参加者と知り合いになり、この人の繊細さや内気さや慎重さに、まったく違う感情を持ちじめている自分に気づき、驚愕しました。

■2001/03/14 (水) 恐怖心

そうなのよ♪
でも恐怖心って「感情」だから、言葉でいうほどは簡単な事じゃないんだよね。
たとえば「バンジージャンプ」なんか「絶対安全だよ、大丈夫だよ、ほらっやってる人がいるでしょっ」なんて言われても、出来ないものは出来ないのよね。
まぁバンジージャンプは日常生活に困らないけど、日常生活にかかせないものが怖くなっちゃうと、結構しんどいよね。周りも結構しんどい事になっちゃうし。
で、どうすればいいのか?って事になるんだけど、「少しずつ慣れる」ってのが、一般的だけど、手順というか順番というか、これもそうそう口でいうほど簡単じゃないんだ。というのも、潜在意識で「怖がっている」のに怖くないふりをしていて「自分が怖がっている」という事すら気がつかない人がいるでしょ、結局そうなっちゃう可能性が大きいのよね。じつはこれが「かくされた・・・・」って奴だから無自覚のまま他人を傷つけてしまうのよ。自分が「怖がっている」っていう事を気づかれない為、また自分でも気づかないようにする為に「怒っちゃうのよね」
また、同じような事言ってるみたいになっちゃうけど、ここでも怖がっている「自覚」ってのが重要なポイントになるんだよね。理解して自覚できていると、少しずつ改善されていくのだけれど「合理化」で何重にも「防衛」してると、それも難しくなっちゃうんだよね。
「かくされた・・・・」が男性に多いのは子供のころ「男の子は怖がっちゃいけない!」ってのが多分に関係してると思うんだ「怖がってることがばれるのが怖い」とか。こういうのが「男らしさの病」だろうね。

■2001/03/13 (火) あまのじゃく

いるかさんが自主出版した「人間を考える」の中にあまのじゃくという概念について書いていたけど、あれはとても重要なことだと思うんだ。つまり、人間の心の領域では、拒絶すればするほど執着するという作用があるんだよね。だから、どうして七面倒くさい無意識だとか前意識なんかをほじくり出さなきゃなんないの、
という疑問に対しては「それをしないと捨てられないからよん」ってことになる。
他に方法があればいいけどないのだもの。
たとえば「人の目がこわい」を例にするなら、どうして人の目が恐くなったのかなって考えていくと、必ずそう感じた体験が過去にあるわけだ。たいていは幼い時よね。それがたいした体験でなければ「ああ、そうか、あのときあんなこといわれたのがきっかけだったのか、なーんだもうやめよう」で済むけど、ま、そのていどのことなら、別にご幼少のころまで溯らなくても「人目を気にして生きていくほど人生長くはないよ」みたいな居直りかたもできる。問題はそうじゃないときよね。
人目が神経症的に気になる、みたいなときが問題なんでしょ?

■2001/03/11 (日) 怖れているもの

人間の条件?・・・う~~ん、すぐには思いつかないなぁ
何をおそれているのか?この辺が明らかになっていくと、結構見えてくるのかもしれないよね。まぁ貧乏してると将来の生活なんか結構心配になったりするけど・・・そんなんじゃなくって、例えば家の中がちらかっていると、いらいらするよね。この時「何を心配しているんだろう?」ってふと考えたりするといいかもしれないよね。まぁ潜在意識までほり進むと結構しんどいから、とりあえず前意識くらいでお茶をにごして、それが続くと、すこしづつ潜在意識に到達できるかな?
って事だと思うんだ。それには「潜在意識」が自分の行動の大部分を支配しているんだ、って認識がまず必要かな?そうじゃないと「なんで潜在意識を知る必要があるんだ!」って事になりかねないから。「自分が自分の思い通りに動かない」って思っている人が、もしうまく潜在意識を見ることが出来たら「自分はまったく自分の思い通りに動いている」って事を発見できるんだけどね。
それにはかなり「恐怖」を見つめて「怖いものじゃない」って認識が必要なんだよね。たとえば「人の目」なんてのを怖がっているけど・・・・・・・
なんで「人の目が怖いの?」って疑問を持っていくと。それほど怖がるもんじゃないって理解出来ていくんじゃないかなぁ・・・・・って楽観的過ぎる?

■2001/03/10 (土) 人間の条件

さて煙草に関する合理化は一応できたようなので(^^)・・・と、つまり自分で自分を笑ってやるという姿勢が一番健康なのではないのかねぇ・・・あ、そうか、こんなに簡単に結論がでては困るのだ。
なぜわたしたちは自分を笑うことができないのか、それはやっぱり大人になっていない部分、子供のころの刷り込みから解放されてない部分が誰でもあるからだよね。違うかな。笑えないほどの恐怖感を植え付けられちゃったのよね。いったい何を恐怖しているんだ!
どうもまた、ここで堂々めぐりになっちゃうけど、なにかこう、新しい「人間の条件」みたいなものが必要なんじゃないのだろうか。


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■2001/03/10 (土) 禁煙(^^)い

かれこれ、20年位前になるけど、「禁煙茶」ってのが日本で話題になったことがあるんだ。で、好奇心旺盛な僕σ(^^ )は、禁煙する気もないのに、試してみた(^^V
あれはいいよ♪「あぁこれなら、いつでも、やめたいと思ったらやめられるな。」って思って安心してタバコを吸い始めた (^^ゞ

それ以前30代前半ころは何回か禁煙に挑戦したけど、ことごとく失敗した(;^^A
だいたい、禁煙始めると「口寂しく」なるのと、食べるものがおいしく感じられちゃうので、太り始めちゃうのよね(;;)
兄貴も弟も禁煙しちゃったけど、やっぱ最初の内は太り始めていたが、最近は元の体型に戻っているから、そんなに心配する事はないかもしれないけどね♪

日本でもアメリカほどではないけど、喫煙者の肩身がだんだん狭くなって来ているんだ。
だいたい、元々喫煙していなかった人より、禁煙に成功した人の方が厳しいよね。
自制心なんて、なまじだすと、それだけ心が狭くなっちゃうんじゃないかなぁ・・・
なぁ~んて、いったりすると「喫煙はすっていない周囲の人に害を及ぼすから、殺人と同じだ!」なんて言われてしまうかも知れないから、この位にしとこ♪

■2001/03/10 (土) たばこ・合理化・自己肯定(^^)My

・・・でも人間やっぱり、ひとつやふたつ弱点がないと(ひとつやふたつじゃないって!)傲慢で狭量になるかなぁ・・・わたしの友人に仕事もよくできるし良い母親だし、いいとこづくめだけれど肥満の人がいて、彼女は過激な嫌煙家。彼女の前では煙草吸わないからときどきわたしが喫煙者だってことを忘れてしまうのか、かなり厳しい喫煙者批判をするときがある。わたしは「近頃は喫煙家と肥満が社会のスケープゴートになりつつあるね」と、喉元まででかかるのだけど、喫煙者がいじめられはじめたのは最近のこと。女性の肥満はもっともっと前から相当に残酷ないじめられかたをしてきた・・・だから、少しくらいいじめさせてあげよう、という気持ちになってしまう・・・そのうち本人が気づくだろう・・・でも彼女が肥満ですらなかったら一生気がつかずに、世界中にあふれている自制心のない人たちに怒ったり憐れんだり憂えたりして、それだけで喫煙者よりも寿命を縮めるのかもしれない・・・そんな風に考えはじめると、人生なんてホント、わかんないものだよね。喫煙者が病気になったときにかかる医療費が膨大で、国家予算に多大な影響を与えているなんてことまでアメリカではいうのだけど、働き中毒のストレス病(不健康な食事・乱飲・乱淫・乱暴・・完璧主義の強迫性障害・・・心臓血管症・脳卒中・ガン・糖尿病etc)にかかっている人と比べた統計はあるのかな・・・最近はドーパミンの分泌を促す錠剤で禁煙する、という方法があるのだけど、わたしなんかはこれの世話にでもならないとダメかもね・・・煙草の値段が上がったから、今ならこの療法の方が煙草よりも安くつく・・・ありがたいことで・・・^^

■2001/03/10 (土) たばこで(?)(い)

MYさん、タバコすうんだ・・・実は僕も・・・ポリポリ
でもたばこでPCがおかしくなるなんて絶対変だよ。(^^)アメリカじゃ嫌煙が相当過激だと聞いていたけど、そんな事いう人もいるんだ。
なんでもたばこのせいにしてたばこをやめさせようというのが、僕だったらキレルかもしれない(^^)
いや、僕も今の子供が生まれた時本気で禁煙考えたけれど・・・・・・駄目だった(;^^A
まぁ今は台所の一ヶ所だけでたばこを吸う場所決めてそこ以外では吸わない事にしてるんだけど・・・
もともと、自制心なんたない方だから、あんまり罪悪感とかはないんだけど・・
健康なんかに関係してるなんてあんまり思ってもいないんだ。だけど、家の天井や壁が茶色くなっていくのはちょっと気がかりだ・・・・
まぁ健康のほうは結構自信があったんだが、99年に手足が弱っちゃう原因不明の病気になってちょっと最近は弱気になってきている(^^ゞ
55才を境にチョット「衰えたかな?」って感覚はあるよね。

■2001/03/10 (土) 罪悪感・精神的負担・自覚・合理化?

わたしのPCがダウンするかもしれない。去年の夏にダウンしたときと同じような状態になってきたから。あのときは煙草の煙のせいでメモリーがだめになった、といわれたの。以来、早くこんなバカな悪習とオサラバしようと思いつつ、相変わらずPCの前でプカプカやっている・・・娘は嫌煙家になっちゃってるから彼女と長時間つきあうのもおっくう・・・もっと小さいころには親が煙草なんか吸っていたら明日にでも死んじゃうんじゃないか、と思ったらしくてずいぶん文句をいわれた。だから、煙草以外はとても健康的な食事もしてビタミン剤ものんで気をつけているから大丈夫、と言わなけりゃならなかった。罪悪感に苛まれた。今のところ煙草だけはどうしてもやめられない。孫ができたら困るな、赤ちゃんのそばじゃ吸えないよ・・・そうなったら外に出て吸うしかないな・・・まぁ、その方が自分にとっても健康的でいいか・・・こんなことしてたら寿命を20年は縮めるのだろうけど、元来が健康で、ほっておけば100歳まで生きてしまうかもしれないし、そんなに長生きしたら娘の方が先に逝っちゃたりして、それも嫌だし、だいたいそんなに生きてるだけの金がつづかないかもしれないし・・・でも最近値段があがったからやっぱりバカバカしいなぁ・・・でも払った金の大半は税金だから、何かの役にはたっているのかも・・・ならば命縮めてもいいか・・・自分以外の人で煙草吸わなくてもいい人にはやめてもらいたい、若い人ははじめないでほしい、最近は煙草吸う人は就職が難しいなんてご時世だし、妊婦には絶対よくないだろうし・・・あ、そういえばわたしが妊娠したときは、つわりで煙草が吸えなくなったのだった。幸運だった。でも肝心なののは受胎のときだから関係ないか・・・それにしても健康な子が育ったのは不思議・・・やっぱり運が良かった(^^)

■2001/03/10 (土) 自覚?(い)

1000時は直ぐ過ぎちゃうなぁ・・・・
僕が35才くらいの時ある若手経営者が主体のボランティア団体に所属していた事があるんだ。(40才で卒業)僕の入りたての時、ちょうど「母乳推進運動」というのをやっていて、各地に講演活動なんかしていたんだけど、僕も下っ端として参加した時のこと。質問コーナーで、あるお母さんが「私は母乳ではなくミルクで子供を育ててしまったのですが、そういう場合はどうすれば良いのですか?」って質問があったんだ。その時リーダーはしどろもどろの答弁しかできなかった。僕も若かったので(僕がシャシャリ出るような場面じゃなかったけど)どう考えていいのか良くわからなかった。勿論今同じ場面に遭遇しても、たいした事はいえないかもしれない。でもそのお母さんの心の内面は読める。あらゆるものに「よい事、悪い事」でカテゴリー分けして考えていく習慣が見についてしまうと。「よい事」と言われると、それ以外は「悪い事」になっちゃうんだよね。ここでいえば「母乳で育てるのはよい事」と誰もが思っているなら「ミルクで育てるのは悪い事」っていう事になっちゃうわけだ。そうすると「自分は知らなかったとはいえ『悪い事』をしてきたことになるじゃないか」それがそのまま「罪悪感」になっちゃうわけだ。
だから「母乳で育てるのは良い事」という価値観を否定したくなっちゃうんだよね。同じような場面には良く遭遇するが結局「私を悪者にしないように、あなたの意見を撤回しなさい」という暗黙の攻撃があるわけなんだ。これを「受動的攻撃」と呼んでいるけど、勿論「悪い事」なわけじゃないよ♪
問題は、やっぱ「自覚」なんだと思う。善悪だけでしか考えていない自分を自覚するとか・・・・・
なんか言いたい事の半分もいえないなぁ・・・
まぁボチボチいきますか。1000字がすぐ来ちゃう(;;)

■2001/03/09 (金) 精神的負担(い)

ちょっと話を戻しちゃうけど・・・・・つってもつながってるけど。
結局「罪悪感」という奴で人間の行動を制限する事で、現在の人間の社会生活は成り立っているんだよね。でもそれだけじゃ、やっぱ犯罪は減らない。さらに罰を強めたり、規則を細部にわたって規定したりすると、ますます社会が窮屈なものになてしまうわけだ。時には冤罪なんかも出て来たり。法で規制するやり方には限界があるって、ほとんどの人が感じている事だと思うんだ。
でその「罪悪感」って奴なんだけど、ようするに行動を起こすのに「精神的負担」を増大する事を目的にしてるわけだ。だから「罪悪感」を持ったまま犯罪を犯すのは結構難しいものなんだよね。ところが、合理化という、まぁ端的にいえば「屁理屈」を作ると、案外簡単に行動化出来るわけなんだよね。「ぬすっとにも3分の理」ってのはこういう事なんだよね。そして、一旦合理化を使って犯罪を犯してしまうと。なにやら得たいの知れない「快感」が生じて止められなくなってしまうんだ。これは子供の頃「いけない」って言われてることをやってる「いたずら」が楽しくってしょうがないものと通じるんだけどね。多分ドーパミンが出るんだろうなぁ。
で僕がなにを言いたいかというと、実は合理化をつかって精神的負担が軽くなったように思えても潜在的には「罪悪感」は消えないって事なんだ。これは重要。
まぁ犯罪まではとても容認できないけど、いつのまにか出来てしまった「罪悪感」の中には、とっくに放棄してもいいものがあるんだよね。ところが、意識でそれを発見しないと「罪悪感」を抱えたまま、「合理化」を作って行動してしまうんだ。
そうするとその「合理化」を否定するような価値観にぶつかっちゃうと、潜在意識の「罪悪感」が表面化しそうになって、精神的にとても苦しくなってしまうので。
ほとんど反射的に「拒絶」が起こるんだ。これがいわゆる「無能化」と呼ばれている精神活動のメカニズムなわけ。
というわけで「合理化」を使って精神的負担を軽くする習慣を見につけると、いわゆる「頑固」になって他人の言う事がs聞けなくなったりするんだ。
だから「合理化」で精神的負担を軽くするのではなくって、必要のない「罪悪感」を廃棄する事で精神的負担を軽くする方法を考えた方がいいのではないか?
って事なんだけど。

■2001/03/08 (木) 人間の攻撃性(My)

「人間の攻撃性は本能である」なんていいかたはたいてい動物研究からきているものだけど、今は動物研究の結果もいろんな解釈がでてきてるよね。どんな攻撃性なのか、と子細に検討していったら動物と人間ではずいぶん違うみたいだ。
それから解剖して脳の状態を見た結果云々・・・なんていうのも、今の脳科学でわかってきた「脳の配線が生後の環境で変化するからくり=トラウマ理論」を考慮すると誰の脳を解剖したのかが重要になるのじゃないのかなぁ。リサーチのための解剖って刑務所で死んだ人が対象の場合が多い、という話をどこかで読んだけど。科学的研究といえども思い込みの影響から完全に解放されるのは難しいってことか・・・。

■2001/03/08 (木) 価値観

ここで、ちょっと視点を変えて、従来人類が社会問題を解決するやりかたを検証してみようと思うんだ。
まぁ、検証というほどでもないが、従来例えば犯罪なんかが起こると、犯罪者を社会から隔離する、又は排除する(死刑)という方法をとってきているわけだ。
で再発をふせぐやり方は、「罪悪感」という強迫観念で、行動を制限してきた。
という事なんじゃないかな?このため「罪悪感」というのがなければ、社会は混乱してしまう。勿論「罪」の「意識」だから、当然そこには「罪」というカテゴリーが必要になってくるんだよね。これがいわゆる「価値観」の前提になっているわけだ。
で、人類は従来から、現在でもず~っとこの方法をつかって、問題解決をしつづけてきてるわけだ。でもこの問題で、すべてが解決したわけではないんだよね。うん、人間が少ない時には・・・・そう、誰もが顔見知り、みたいな社会ではこれでも充分機能するんだが、人口が増えるとそうもいっていられない、ッて事になるんじゃないかなぁ。
この方法の最大の欠点は「矛盾がおこる」ってことなんだ、まぁひらたく言えば「じれんま」ってやつかなぁ。僕が本やHPでとりあげているフロイドのアインシュタインへの手紙の一節にその「じれんま」が端的にあらわれていると思うんだ。
彼の考え方だと「1.人間の攻撃性は本能である」「2.だからその攻撃性を超自我で抑えなければならない」「3.しかし超自我が内面に向かうと不健康である」「3.特に大規模にそれが行われと発病する」というものなんだ。
アインシュタインはなんとか戦争を止める方法はないものだろうか?と問い掛けていたのだと思うが、フロイトの答えは「難しい」って事になるんだよね。
もっと平たく言うと「社会問題は攻撃性が本能である限り、なくす事はできない。だから、恐怖心で抑制しなければならない。でも抑制が強すぎると病気になってしまう」って事なんだ。このじれんまに対して人類はどう対処してきたかと言えば、
「程度問題」という個人的感覚にゆだねてきたんだよね。今でも続いているけど。
しかし、僕の考え方というか事実の把握の仕方では「攻撃性は本能」というところに疑問が生じるわけだ。で、ここが違っていれば希望が見えてくるんだよね。
「じゃ、後天的なものか?」っていわれると「そうでもない」っていわざるを得ない。だからヤヤコシイ

■2001/03/07 (水) 違う価値観

MYさんの話を読んでいたら、色んな事が出てきちゃって、頭の中で整理がつかなくなっちゃった(^^)
そう、多分ここになんか原点みたいなものがあるよね。子育てしているお母さん達が口をそろえて言っているのが「子供と一緒に育っている」っていうのだよね。だから、子育てだけではなくって本当は学校なんかもそうなんじゃないかなぁ、先生は子供からも教えられるって感じる人なら、色んな面で良い方向を向くと思うんだ。でも現実には必ずしもそうはいえないかもしれない。NETをやってるお母さん方はまだ前向きなほうだと思うんだ。なにかを学ぼうという姿勢があるもんね。
例えばPETを育てるだけでも、色々な経験が出来てとても勉強になるんだけど、中には小さい時には「可愛い」とかいって飼いはじめても、大きくなって、可愛くなくなってしまうと、捨てちゃう人って結構いるんだよね。こういう人が子育てすると、どうなっちゃうんだろう?・・・・・・・なんか想像がついて難しいよね。
そういう人をなくそうというのが教育なんじゃないだろうか?良く学校関係の問題が出てくると、学校関係者で「学校には問題がない、すべては家庭の問題だ」なんて発言する人見かけるけど「そういう家庭を作るような人を教育したのは学校なんじゃないの?」ってつっこみたくなるんだよね。皆最小限中学までは教育を受けている、日本の現状では、卒業してからすっかり忘れちゃうような、教科の詰め込みより、もっと大切なものがあるように思うんだ。
いや(^^)書いてるうちに、どんどん思ってるのと違った方向に向いちゃった。
っていうか、この問題はそれだけ色んな物を含んだ基本的な問題ってことなんだろうなぁ・・・
先生になるにも「資質」みたいなものが必要だよね。でも「テストテスト・・」で先生になっちゃうとどうしても「テスト」に価値観を持っちゃうのもやむおえない事かもしれない、とか思っちゃうんだ。

■2001/03/07 (水) 新しい価値観と出会ったとき

グローバルな視点っていうと大げさだけど、海外旅行を一度だけしたり、外国の情報を知ったりして、彼我の違いをひとつだけでもみて「自分が思い込んでいたものとは違うものも世の中にはあるんだな」って体感できればいいのよね。ちょっと想像力を働かせればそこからいろんな連想がはじまって「ひょっとしてこれも自分の思い込みかも」と考えられるようになったらシメたもの。
しかし外国に何十年住んでいてもちっともグローバルな視点を培わない人もいるから困ったもんだ(^^)
もうひとつ、わたしがいつも思っていることは、子供が自分の価値観と違う特質を持って生まれてきたとき・・これが正念場になる。これくらい自分の視野が広まるチャンスはないのだけど、たいていは無駄にしちゃうよね。自分が信じきってきた型にはまらない子だ、って気づいたとき型の方に疑問を持たずに子供を矯正しようとする・・・それを愛情だと思っている。自分を善だと信じてたら子供が悪になっちゃうのだから一大事よね。親子のあいだで「わたしはこうだけど、あんたはあんたでいいのじゃない」っていうのは、そんなに難しいことなのかなぁ。善悪でとらえているとどっちかが悪になっちゃうから共存できないのよね。



■2001/03/06 (火) 合理化の弊害

うん、そんな具合に善悪そのものが、まぁなくならないまでも、もっと価値観が融通性のあるものになると、いいよね。やっぱそれにはグローバルな眼を養うって事かなぁ・・・。でもこのあいだも「人類なんて、大きな事いって、自分がキリストか仏陀になったような、自我肥大をおこしている」なんて非難されたけど、世界規模で物事を見るのが怖い人もいるんだよね。局所的価値観で、自己完結しているから、それ以外はどうしても拒絶しないと合理化が崩れて、精神的負担が大きくなっちゃうんだよね。まぁこれも「合理化の弊害」なんだけど・・・
でも、勿論僕は「合理化」がいけないって言ってるわけじゃないよ。合理化も「うそ」と同じく自動的にできちゃうものだから「いけない」なんていったらもともこもなくなっちゃうんだよね。
じゃぁなにがいいたいんだ、ってことなんだけど。それは「自覚」って事かな。ほんとうは「悪い事」なんかじゃないのに「悪い事」と信じて、それゆえ自分で自分をだまして(だますのも悪い事じゃないよ)「悪くない」という「合理化」をつくっちゃうと、背後に「恐怖」があるのでどうしても「頑固」になっちゃう。(頑固も悪い事じゃないよ、自然現象だから)頑固になってしまうと、違った価値観にぶつかったとき、とても受け入れることが出来なくなって、最終的には排除したくなったりすることが、あるので、せめて価値観を持っていてもいいし、頑固でもいいから「自分は頑固なんだなぁ」って自覚することで、違った価値観を排除する気持ちがだんだん薄らぐかもしれないよ。っていう事なんだ。
ちょっと回りくどくて、わかりずらかったかなぁ。

■2001/03/05 (月) 善悪

日本からアメリカに来てみて、たかがこれだけのことで変化するほど、善悪の基準なんてわからないものだなぁ・・・と思った。日本じゃ奥床しいなんて誉められる行動が優柔不断になったり、アメリカ人の生活の向上はアマゾンの森林破壊になったり、後進国の強制児童労働になったり・・・。
もっとも普遍的な殺すな云々にしても、戦争を持ち出したら誰を殺すのが正義か、敵と味方でガラリと変わっちゃうわけだから。
限定した集団の中でだけの「これはいけない」はあっても、視点をどんどん大きくしていって地球全体、なんてところから見ると、たいていの地方的(痴呆的と出たけど変換した^^)価値観はくつがえされちゃう。宇宙まで視点を広げたら地球の損益も変わってくるかもしれないけど、そこまでは考えないことにして(^^)
でも、善悪の先入観を乗り越えることは、こんな風にしてできるものかもしれない。善人も悪人もいないんだ。みんな地方的視座で見ているから、部分的善悪が
出てきちゃうだけ。その小さな箱の中での合理化なんだよね。あれっ、話がずいぶん大きくなっちゃった。個人の罪悪感のこと言ってたのよね。ま、わたしはこんなことを考えているうちに、自分のことも自然体のまま受け入れられるようになった、というところでオチをつけとこ(^^)

■2001/03/04 (日) 懺悔

懺悔で思い出した。
僕が子供の頃、教会の牧師が「仏の顔も三度までといって、仏さんは3回までしか赦してくださらないけど、キリスト教の神様は、懺悔をすれば何度でも赦してくださるんだ。だからキリスト教の神様は仏様より慈悲深いんだよ」なんて言っていた。子供心に「この人なにいってんだか!」って思ったのを思い出した。(^^)
キリストもお釈迦様も結構「良い事」いってるけど「・・・教」になっちゃうとまぁ「自我喪失」の人間様がやってる事だから「50歩100歩」「目くそ鼻くそ」のたぐいじゃないかなぁ。仏教にも「修行」なんてのがあったりするけど、お釈迦様は「難行苦行をしてはいけない」って言ってたらしいよ。
「修行」ってのは、やっぱ合理化の一種なんだよね。「私はこんなに苦労した、だから・・・・・・・」ってやつなんだ。苦労したからっていばっていいってもんじゃないよね。
★「うそ」にかぎらず「良い悪い」の価値観は「罪責感」で他人を操縦するための基本アイテムだから、人間にとって人間が「天敵」になってしまった遠い昔からあるんじゃないだろうか?
もうこの辺は推測でしかないけどね♪
★合理化の弊害って自分で言っておきながら、まだまとまっていないので、そのへんをまとめてみたいと思うんだ。最大の弊害は「自己修復」を阻害するってところだろうなぁ・・・・

■2001/03/04 (日) 宗教国の建前と本音

アメリカは政教分離の立役者のくせに濡od bless Americaって言わなきゃ大統領にはなれないねーーという国だから、宗教がらみの建前(うそ)はすごいと思う。なにしろ、うんちもおしっこもしなくていい全能の神様が、不出来な人間を裁いて地獄に落としちゃうのだからねぇ。いいかげんな人は懺悔という合理化でなんとかごまかしちゃうけど、生まれたときから原罪意識を叩き込まれている人は、いるかさんが言うように、本音が潜在意識にはいっちゃてるでしょうね。この弊害ははかりしれない。
その点、仏教国の方が・・・こっちもまた別の地獄があるけれど・・・汗くらいはかいても良さそうな(^^)。そうでもなかったか。
うそをついてはいけないという倫理はいつからはじまったのだろう。

■2001/03/03 (土) 合理化

合理化は色んな弊害があるんだ。だから合理化で逃げるのではなくって
始めから「悪い事じゃない」ってのが必要だな、ってことなんだけど、なにが「合理化」になってなにがそうじゃないのか、いまいちわからないかもしれない。(それほど、誰もが身についちゃってるって事かな)
僕の友達でパチンコの好きな人がいるんだ。彼は会社の社長なんだけど、よく仕事の途中でもパチンコやったりするらしい。である時僕に(僕とは利害関係まったくないから)パチンコで儲けた話を始めたんだけど、勿論僕は「うんうん」とか「そりゃすごい!」とか相槌うっていたのだけれど、いきなり彼はなんの脈略もなく突然「やっぱパチンコはストレル解消には一番いいよな、音楽がガンガンなってるし頭でな~んにも考えなくなるから」とか言い出したんだ。これが「合理化」。
だから、彼は「パチンコを止める事は出来ないと思うんだ。
うその場合も「誰でもうそはつくんだから」でわ合理化になるし。僕の言ってる事を理解して「怖いんだからしょうがない」とか「欲しかったんだからしょうがない」とかいっちゃったら「合理化」になっちゃうんだ。
そううそは自然現象だから、例は悪いかもしれないけどウンコやおしっこみたいなもの、とか暑いと汗がでる、とかそんな感じになるのがベターだと思うんだ。
でも今の人間は「うそはいけない」というスーパーエゴを必ず持っているから、いきなりは無理かも知れない。そこで「うそ」をついたら「自分はなにを怖がっているのだろう?」とか「自分はそこまでして欲しかったものとはなんだったんだろう?」って自分を振り返ってみるのがいいかもしれない。とか思うんだ。

■2001/03/03 (土) 建前と本音

日本では「建前と本音」って言葉があるよね。アメリカにはそんなのないって聞いた事あるんだけど「そ~かなぁ~」ってのが僕の感じなんだけどどうかなぁ。
日本に来ているアメリカ人をテレビなんかで見ていると「本音が潜在意識になっちゃっただけ」って感じがするんだ。
それは\(^^\)オイトイテ(/^^)/
建前って早い話が「うそ」だよね。売春を「援助交際」とか浮気を「家庭外恋愛」とか言葉を置き換えて「精神的に楽」にしたりするけど、これと同じだと思うんだ。こういうのが「合理化」っていうんだ。
もともと罪意識がないのがベターなんだけど「罪意識」を持ったまま行動化すると
(エスの欲求は強いから抑制しきれないんだよね)そのあとの精神的負担が大きくなるので「合理化」が必要になるんだ。でもこの「合理化」が曲者なのだ。
合理化には背後にかならず「罪意識」があるんだよね。だからエスが行動化しても「自己修復」にならずに、エスの行動化が慢性化して、いわゆる「依存症」になっちゃうのね。だから合理化ってのは「論理性」にかけてるんだけど、それを使う人の潜在意識の「罪意識」のせいで、「論破」にたいして激しい抵抗があるんだ。
でも合理化で「楽」になってるつもりでも長続きする自分の「悪癖」に長期にわたって「自分でもうんざりする」というのが続きこれが結構身体化して、生命力そのものが疲弊するので出来うる事なら合理化で楽になるのではなくその以前の罪意識そのものをなくした方がいいと思っているんだ。
だから、よく日本では「うそも方便」とかいう「合理化」があるけど、これで楽して「うそ」をついていると、結構社会的に難しい問題が噴出するし、いつまでたってもなにも好転しないし、なにより自分自信の負担がおおきいので、それよりも「うそをつくのは「悪い事」ではない」っていう価値観のほうが、不必要な「うそ」とか、他人を傷つけてまで利益誘導する「うそ」はなくなると思うんだ。

■2001/03/02 (金) うそだけはーーー

わたしは「うそだけはいけませーーん」っていいたがる傾向があるのだけど、がまん
して聞いてるネ(^^)あ、でもわたしは結構方便的なうそをつく方なんだろうな。でも、そのためになんらかの実害がでてきたら「本当は・・・」と正直に言うだろうと思うな。

■2001/03/02 (金) 補足・・・うそについて

エラーが出てパニクッたらしくって、なんだかわかりずらい書きこみになってしまったようなので、ちょっとまとめて補足をしておきたい、とか思った。
★「うそ」というのが人間社会に及ぼす影響ははかりしれないとおもうんだ。
特に社会に大きな影響を及ぼす可能性のある立場の人達の「うそ」は時には国全体を衰退させる事もまれではないよね。でも「うそは悪い事」というだけじゃ、なんにも問題は解決しないと思うんだ。でもここをなんとかしていかないと、人間社会が良い方向を向くとはおもえないんだ。
★そこで「うそ」について考えて行こうとおもうんだ。「うそをつく」精神状態って2種類あるよな気がするよね。一つは「怖いから」もう一つは「利益誘導」
これは動物にも見られるもので「天敵から身を守るため」と「獲物を獲得するため」(これは肉食動物にかぎられるかな?)すなわち「うそ」は本能的なものなんだと思うんだ。怖かったら「うそ」をついてもいいし、なにか「獲物」に相当するものを獲得するためには「うそ」も必要だと思うんだ。
こんな事いうと、かなりの抵抗が出て来そうなんだけど、それは現在の人間社会に「うそをついてはいけない」という常識が根付いているので、感覚的にとても不愉快になるんだと思う。
★問題はその後にあると僕は思っているんだ。まず「うそは認めても良い」所から出発して(というのも本能的なものを抑制するとそれだけで、精神が不安定になるから)社会に少なからず混乱を起こす「うそ」について、充分考察する必要があるのではないだろうか。

■2001/03/02 (金) ふ~ん・・・って事

僕はHPを開設して一番?いや2番かな?とにかく関心があったのは「自我喪失」している人ってどんな考え方をするのか?って事だったんだ。政治家とか官僚とか
時には銀行のおえらいさんとか学校の校長とか、なにかがあると必死に隠そうと
するよね「そんな事したら事態はもっと悪化するのに」とか思うんだけど。気がつかないのかなぁとか思うんだよね。でもって、MLとか掲示板に時々それらし人が
発言してるのを見てると「ふ~ん・・・・なるほど」って思うんだ。勿論かれらが
「恐怖心」でそうなってるのは充分理解はしているけど。良く保身のためとはいえ
そこまで曲解できるなぁってくらい強引な解釈をしてるのが面白いよね。
とても勉強になるんだ。ものすごい「合理化」でぶあつい「防衛」を作っているのが良くわかるんだけど、あくまでも「合理化」なんだけど彼らはそれを「真実」と
思っているから、とても客観性なんてのは望むすべもないよね。
合理化の典型的パターンの一つは「赤信号みんなで渡れば怖くない」ってやつなんだ。
これがいわゆる「同調圧力」をうむんだよね。

いきなり核心にふれてきたので、具体的にはもっと咲きにしよう。

■2001/03/02 (金) いきなり核心

う~んと、いきなり核心をつきそうなので、結構なやんだ(;^^A
僕はHPを開いて一番・・・か2番かはともかく関心があったのは「自我喪失」
している人ってどんな考え方をしてるのかなぁって事だったんだ。
例えば政治家とか官僚とか、時には学校の校長とか、メチャ隠そうとするよね。
あれが不思議でたまらなかったんだ。よく考えれば余計事態を悪化させるのは
目に見えているのに。最後の最後まで抵抗するよね。うん時にはそれが成功する時もあるみたいだけどね。まぁ彼らが「怖い」からうそをつきつづけているってのは
解っているんだけど。どんな考え方をしてるのか「スーパーエゴ」はどうなってるのか?ってのが知りたかったんだ。
でMLとか掲示板にそれらしい人が出てきて発言すると「ふ~~ん・・・なるほどなぁ」って感心すらするんだ。
やっぱ、ものすごい「合理化」でぶあつい防衛をしているよね。だから、その合理化を崩されそうな考え方には必死で抵抗してくるんだ。それは文字道理「必死」なんだよね。
で、合理化のパターンを発見したんだけど「赤信号みんなで渡れば怖くない」ってのが典型的パターンだと思うんだ。この辺に「同調圧力」みたいな原因も潜んでいると思うんだ。
また彼らは「優劣」に強く固執してるから、自分が「劣」と判断したものには、死んでもはいるまいという、強い感情があって、それが客観的観察をする事を阻んでいるんだと思うんだ。ここが一番怖いところかな?



■2001/03/01 (木) えっと

わたしはネットでの語り合い現象ってのは、みんなが自分に正直になりたい
って願望をもってるからじゃないかと思うんだけど(自分のこと^^)・・・匿名性っても便利だし、安心できる場が現実の世界にないから・・・みんなかなり限界がきてるのじゃないかしらね。そういえば前にちょっと話した燃adical Honestyって本は、まぁ徹底的に正直になることがセラピーだ、っていうか、瞑想したりするのと似た効果をもたらすみたいなことをいってるのだけどもね。でも、この本は過激すぎるから翻訳するのは止めた(^^)
ま、わたしはネット以前はたまに日本へ帰ったとき以外に日本とはほとんど
縁のない生活してきたから、過剰に反応してるのかもしれないけど。

いるかさんがネットを通じてフーーンって思ったことはどんなことだったの?

■2001/03/01 (木) なるほど

うんうん、そうかぁ・・・・今日的なものねぇ・・・・
今の人達は「何を求めているのか?」みたいなものを具体的に考えて
それを一般化するのもいいかもしれないよね・・・・・
まぁ、最初から結論つけるのはまずいけど。求めているのは
「母親」と「自分」って感じがするんだ。いろんな現象特には「はやりもの」みたいな物を分析していくと、そこに到着するような気がするんだ。勿論なにか他のものも求めているかもしれないので、あんまり断定的にはいいきりたくないけどね。
う~~ん・・・あと「自分の居場所」みたいなものかなぁ・・・・
このあたりが、前意識的でとっかかりやすいかもしれないよね。
なんとなく、こんな感じで考えを深めていくのがいいかも知れないとかおもっちゃうなぁ。ちょっとまとまりがなくなりすぎたかなぁ・・・



 

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