depression

こんなに明るい

私がうつ病持ちだった  

 



これはわたしの35年間にわたる・#12454;ツ・#12398;記録だから、とても長い話になりそうです。そこで、前と後ろと中をはしょって・・・というわけにもいかないでしょうねぇ。いつ書き終わるかわからないので、これを読んで今すぐ自分のウツを治したい、という方にはおすすめできません。

むしろ、ウツ状態というのがどんなものなのか知らない人、ウツ病に偏見をもっている人、自分はまちがってもウツになんかならない、と思っている人、すでにウツなのにまったく気がついていない人、などに最適かと思います。

また、ふさぎこんでいる家族や知人・友人のことが心配な人などにも、参考になるかもしれません。

わたしはいまだに自分がなぜウツになったのかわかりません。初回のとき以外に医者にも診てもらっていませんし、今年こそはセラピストに相談しよう、と思いつづけているうちに治ってしまったようなので、チャンスを逸して残念だったと思っています。それで、「アレはいったいナンだったのだろう」と自問自答するために、これを書いているともいえます。書いているうちにわかってきたことが、すでにたくさんあります。アメリカでは・#26360;くセラピー・#12392;いうのがありますが、なるほどこういうことだったのか、などどひとりで感心しています。

とりあえず、目次をつくってみました。

 

初回は中学三年生だった

医者は思春期の実存的痛みといった

毎年冬になるとやってくる

うつうつと過食嘔吐

誰にもいえない

うつの最中に受験地獄

世界がモノクロ画像になる

親になっても治らない

毎年、自己観察

ソウか、躁だったのか
コツがわかってきた
ホントの自分は足して二で割ったところにいる
もう大丈夫
お仲間はたくさんいた

 

 

 

初回は中学三年生だった


 
ウツは、スキーで脚を折ったとか、追突事故でムチウチになったのと違い、いつはじまったのかはっきりとはわからない面もある。軽い症状は、ひょっとしたらもっともっと小さいときからあったかもしれない。でも、それはまぁ、思いついたら書くことにして、ここでは「あきらかに・/font>臨床的に・/font>ウツ状態だったとしか考えられない」症状が出たときのことからはじめよう。

 中学三年生の12月だった。昭和39年のことである。
小学校一年生のときから、毎年お年玉やおこづかいを貯めていた貯金でスキーを買った。わたしはこれでも中体連のスキー選手だった(入賞したことはないけれども)から、これは大事件だった。それに、生まれてはじめて自分のお金でする大きな買い物でもあった。
ご近所のよく知っている店に、母や叔父が「これから娘が、姪がスキーを買いに行くから
・/font>・」と鳴り物入りで宣伝してくれた後、わたしは緊張して出かけた。当時は腕をまっすぐ上に伸ばして先端がつかめる長さのスキーが、その人にちょうど良いサイズといわれていた。だからわたしもそのようにしてきれいな赤いスキーを選び、金具もつけてもらって興奮に打ち震えながら帰宅した。
 ところが、ところが・・
・/font>ところが!!!!!
長さが5センチまちがっていた! ハイヒールをはいていたわけでもないのに、どうしてこんなまちがいがおきたのだろう。緊張のあまり腕を伸ばしすぎたのだろうか。あんなに慎重に選んだのに、どうして、どうして、どうして!!!
 このときから、わたしは急速に谷底に落ちていった。
まず、さめざめと泣くばかりで、しばらくは誰にもまちがったことを打ち明けられなかった。そして、この5センチの差が、命とりになるほど危険な差であるという妄想に駆られていった。カーブをうまくこなせなくて切り株に追突するにちがいない、とか前方にいる人を避けられなくて人殺しをするかもしれないとか、ハゲシク転倒してあばら骨を折るにちがいない、とか
・/font>・・。
 やがてわたしの挙動不審が家人の目にとまり、
「なぁんだ、そんなことで悩んでいるのか。取り替えてもらえばいいじゃないか。よし、おじさんが話てきてやる」と、店の若旦那と幼馴染の叔父が言った。しかしわたしは
「そんなことしたら迷惑かけちゃうよぅ〜〜もう金具つけちゃったんだもの〜〜」と、ますます嘆き悲しんだ。叔父も母も、ハッハッハッと笑って行動を開始した。

「おっちょこちょいの娘が姪が
.........
」とはじまり
「まるで生きるか死ぬかの瀬戸際みたいに、おおげさに騒いでいるから
.........
」などと宣伝し
「先代からの長いつきあいじゃないか」などと脅迫し、
「アレは子どものときに頭を打って少しおかしいところがあることだし
.........

などなどと談合している様子が目に浮かぶ。そして、ますます滅入ってくる。
そして今度は5センチの差、のせいではなくて、今や
・/font>町中の人に迷惑をかける犯罪者のような人間になった・/font>という妄想に駆られてハゲシク嘆きはじめた。
まちがったスキーを買ってくれるという奇特な人物さえ現れたのに、もはやわたしは何をいわれても泣きやまない。「そんなことはできない」と言い張るばかりだった。
このころになって、ようやく家人もどこかおかしい、と気づきはじめたのだが、マズイことにちょうど思春期の少女だったから、「そういう年頃」ということになってしまった。
結局、玄関の隅に立てかけてある
・/font>まちがったスキー・/font>を毎日よこ目で見ながら生きていくはめになったのである。

 それからの数ヶ月は決して幸福ではなかったが、なんとか小康状態を得ていた。中体連の競技にも古いスキーで参加した。しかし、二月にはいってからだったろうか、朝目覚めても枕から頭を持ち上げられないという、奇妙な状態に陥った。まるで催眠術にかけられているみたいに、身体を起すことができないのである。風邪でもひいたのだろうと思って、そのまま寝ていると、もう、眠り姫のようにいくらでも眠れる。しかし、目覚めたときには身体がもっともっと重くなった感じだった。

 この枕から頭が上がらないという感じは、その後、数十年間、ほぼ毎年冬の一時期、体験してきたが、ちょっと独特の感じである。わたしはあまり他の病気をしたことがないので比較ができなくて残念だが、心の状態と関係なく、非常に身体的は症状のように思う。この初回のときは前記のように、スキーのことがきっかけになって、とてもフシアワセだったのだが、後年になって
・/font>自分はうつ病持ちだ・/font>と自覚してからは、冬のある朝こんな感じで目覚めたら、前日まで元気いっぱい過ごしていても「お、きたな」とかまえて対処するようにした。どう対処したか、というタメになる話はまたあとで。

 ともあれ、この症状にはじまって、学校の授業にはまったく集中できないし、放課後、友だちと遊ぼうか、スケートにいこうか、のようなつまらないことでも決断ができない、人と話していると失語症になったみたいに、ウッと詰まってしまう。基本的には何もしたくないから、自然とひとりでひきこもってしまう。

 一度だけ、ひとりで重い足を引きずって北の峰スキー場へ行ったが、頂上からすべって降りるのが怖くて、人のこないところに日暮れどきまでじーっと坐っていたことがある。このままここにいたら凍死してしまうなぁ、とぼんやり考えてはいるのだけれど、ただ、起きあがる元気がないという感じなのである。どんな行動にも積極的になれないから、ズルズルっとお尻ですべっていって麓についたらそれも良し、あぶないところに落ちていったら、まぁ、止める努力もせずに落ちるところまで落ちていくのだろうなぁ、などと考えていたような気がする。
 しかし、この日は幸いなことに「お母さんが心配しているだろうなぁ」という可愛らしい思いが浮かんできて、暗くなりかけてから最終のスキー・リフトに乗って下まで降りた。

 なにしろ35年前の話だから、細部の記憶はうすれてきている。きのう、これまであまり結びつけて考えなかった
・/font>事件・/font>を思い出してしまった。これはスキーの中体連競技と関係があるので、どなたか、こういうものが何月に行われるのか教えてくれると助かる。どうも、頭が枕から上がらなくなったのは、この事件の直後だったような気がしてきた。

 
・/font>事件・/font>についてかいつまんで書く。中体連に参加することになっているスキー部員は放課後、毎日のように北の峰で練習していたのだが、ある日、雪面が凍りかけてきて危険だから今日は練習をしないように、とコーチに言われた。しかし部員のほとんどが・/font>言う事をきかずに・/font>残って練習した。その結果三人しかいなかった女子選手のうち、私以外の二人が負傷してしまった。ひとりは麓を歩いていて捻挫したのだから関係ないようなものだが、もうひとりは頂上から直滑降している最中に、わたしの目の前で激しく転倒してアバラ骨を折った。試合の数日前のことである。しかし彼女は誰にも負傷したことを打ち明けずに(もちろんわたしも骨が折れたことは知らなかった)競技に臨み、なんと、優勝してしまったのである!

 その翌日、6.7人の男子スキー部員とわたしは教員室に呼ばれ、怪我人を二人も出したことの「連帯責任」を問われて叱責された。男子は全員往復びんたを張られた。コーチの
・/font>魔の手・/font>はわたしの前でピタリと止まったのだが、この先生もわたしが少し前までヘンな発作を起していたことを親から聞いていたのだろうか。それとも女の子だから「ダイジな顔に傷がつくと嫁さんにいけなくなる」という配慮だったのだろうか。
負傷したふたりはわたしの親友たちである。わたしが一番責任を感じていたはずだった。

 二月の末だったと思うが、期末試験で9科目すべて白紙で出し、翌日の校内スキー大会の大回転競技で、上からすべってきてゴールを通過して、そのまま止まらず家に帰ってしまった。後で優勝したと聞いた。翌日、母に急き立てられて札幌の大学病院精神科を訪れた。 その後、卒業式まで学校には行かなかった。すでに三月だったから短期間だったけれども、こうしてみると、わたしは
・/font>元祖不登校児・/font>だったようだ。

 この章を終える前に、二,三、つけ加えておくべきことがある。(こんな調子でやってたら、いつまで経っても書き終らないワ
・/font>注・この・/font>・/font>の部分は北海道弁で発音してください)

 わたしが中学一年生を終えようとしていた三月の半ば、父が心臓発作のため急死した。この時点では起こらなかったウツ症状が二年後に表出したことは、さして不思議でもないかもしれない。今でも記憶に残っている感情なのだが、嘆き悲しむ母を労わらなければならない、という気持の方が、自分の悲しみよりも常に先にきていたようだ。だから、ウツの方も延期したのかな?
 家庭環境も父の死の前後に激変している。亡くなる一年前に祖母が入院、兄が函館の高校に行った。そして父の死、そのひと月後に姉が札幌の大学に入学。残ったのは母と父の弟で脚が不自由なため同居していた叔父、そしてわたしだけになった。
・/span>臨床的にあきらかな症状・/font>とはじめに書いたが、・/font>あきらかではない症状・/font>としては、中学二年生の頃、母とこんな会話をしている。
私 「人間なんて何のために生きているのだろう」
母 「
....................
私 「な〜んにもおもしろいことなんかないのに」
母 「へぇ〜〜、おもしろいことがなきゃ、いけないものだなんて知らなかった」

 実に愛すべき母である。以後、この話題を持ち出すのは止めた。また、理由は忘れたが、ひどく苛立って癇癪を起こしそうになっているわたしにこんな名セラピーを施してくれた。
「そこの茶棚に欠けた茶碗がたくさん入っているから、外に持ってってレンガの壁にぶつけといで〜〜!すっきりするよ〜〜〜」

 これほどの洞察力を持っていた母が、父が亡くなった後、父の方針とは異なる子育て哲学を実行する自信がなく、「わたしにはあんたたちをどう育てたらいいのかわからない。これからは、お父さんが生前に言っていたことを思いだしながら励みなさい」と言ったのである。わたしに今ていどの知識と体験があったなら、声を励まして「お母さんのやり方の方が子どもはシアワセになるよ。頑張りなさい!」といってあげただろうに。



医者は思春期の実存的痛みと言った


 
診察室の隅にある小さな机に、若いインターンと差し向かいで座らされた。青白き秀才を絵に描いたようなインターン氏は・/font>理知的な笑顔・/font>スラ見せずに、机の上の書類に視線を落としたまま質問をはじめた。年齢、学年、などの基本的なことをまず聞いたのだろうけど、細かいことは覚えていない。覚えているのは、
インターン「えっと、それで、死にたくなったわけですね」
わたし  「はぁ、というか
・・/font>
インターン「なったんでしょ?」
わたし  「
・・/font>
インターン「試してみました?」
わたし  「
・/font>・・&%$*X?!(非常に混乱してきている)」
インターン「どんな方法で試しました?」
わたし  「@#$%&*(この人はひょっとしてここの患者なのでは、という疑いが
・/font>)」
インターン「で、うまくいかなかったわけですね、あ、そりゃそうだ、ここにいるんだから」
わたし  「
(あまりのバカバカしさに冷静さを取り戻し、ふてくされた沈黙)」

この後の質問は覚えていない。質問が終わるやいなや、廊下で待っていた母のもとに駆けつけ、「お母さん、もう治ったから早くうちに帰りましょう。もうこんなところには一分だっていたくない!」と叫んだ。泣いていたのかもしれない。
母は、もう治ったのか、なんとまぁ霊験あらたかな病院だろう、と感心したらしい。
「じゃ、帰りましょ」ということになって出口に向かいはじめたとき、白衣を着た中年の男性が母とわたしの前で立ち止まり
Myちゃん? やっぱりMyちゃんなんだね。やぁ〜、ずいぶん大きくなったね」と言ったのである。
当時、北大病院の精神科は、脳神経科と一緒になっていたのだろうか。この人は、わたしが六歳のとき脳波の検査を受けた際、インターンとして立ち会った人である。当時の脳波検査は電線のつながった針を頭にいっぱい刺さなくてはならなかったので、そばで見ていた彼は泣き出さんばかりにわたしに同情してくれた。とても心のやさしい
・/font>お兄さん・/font>だったのである。

ここで少し、この頭を打った事故について話しておくべきかもしれない。ウツとは関係ないのだと思うが、念のため。

 運動会が近づいていた六月のある日、自転車屋のヒデちゃんと石炭屋のジュンちゃん(こいうコマゴマしたことを書くのは、富良野の人へのお愛嬌)と、
・/font>運動足袋(今でもこんなものがあるだろうか)をはいて路上で駆けっこの練習をしていた。でもヒデちゃんがジュンちゃんとばっかり遊んで、わたしをかまってくれないので、足袋にガラスが刺さったフリをして路上にしゃがみこんでいた。といっても道の真ん中ではなく、多少、車道寄りの歩道という位置である。もちろん当時の田舎道だから車道と歩道の仕分けはされていない。

 そこへ中野電気店に駐車していた車がバックしてきて、車のお尻がわたしの右後頭部にコツンと当たったのである。少し痛かったのだけど、わたしは泣きもしなかった。だから車を運転していた人は気がつきもしなかった。わたしが泣かなかったのは、前述のようにそもそもそこにしゃがんでいた動機からして
・/font>男の子の気を引きたい・/font>という不純なものであったし、泣くともっとバカにされて相手にされないなどと思ったのかもしれない。
これをきっかけに、「人の気を引くための行動は、のちのちまで非常に尾を引く」という大切な教訓を学んだ。

 その
・/font>事故・/font>から一週間後の早朝、わたしは縦にまっすぐ線を引いたかのように左半身がドス黒く変色し、「アゥアゥアゥ」と解読不可能な言語を発している状態で発見された。
またたく間に家族がつぎつぎとふとんに横たわるわたしのまわりに集ってきた。父は開口一番、兄に「お前、妹イジメしなかったか!」などと残酷なことを聞いた。たまたま母は親戚の結婚式に出席するため留守だったこともあり、一家はひどく混乱した。
父の「だいじょうぶか、どこか痛いか、どこが痛いんだ!」と冷静を装いながらも動転している脈絡のない質問に、わたしは「どこも痛くない。あしがシビレテいるだけ」と答えようとするのだが「アゥアゥアゥ」としかならない。それが家族を絶望的にさせたらしい。
 やがて隣家のおばさんもやってきて、わたしの姿を見るなり「まだこんなに小さいのに
........いい子だったのにねぇ〜〜」などと泣き出して父に怒鳴られた。そうこうしているうちに近所の医者もやってきたが、そのころには、この奇妙な発作はおさまっていた。

 さすがに医者は「きのう頭部をぶつけたとか、そんな事故はありませんでしたか」と父に聞いたのだが、もちろん
・/font>きのう・/font>はそんなことは起きなかった。ともあれ、何かあったにちがいない、ということになってご近所さんも動員しての捜査がはじまった。ほどなく駄菓子屋のおばさんが「一週間前に吉田電気店の軽トラックが、遊んでいるMyちゃんの頭を打った、と思ったのだけど、本人が泣いてもいないから大丈夫だと思っていた」と報告してくれた。

その夜、父はしたたか酒を飲んで吉田電気店に
・/font>殴り込み・/font>をかけた!運転していたのはマタ従弟だった、と判明したため激怒したのだった。
「俺の娘をカタワモノにしやがってぇ、どうしてくれるんだ!テメェーみてぇなロクデナシが車なんぞ乗りまわすからだぁ!表に出ろ!もう運転なんかできないくらい叩きのめしてやる!このやろー」
もちろん、このおじさんは自分が事故を起したことなどまったく知らなかったから、ビックリしたらしい。おじさんの家族や近所の人が仲裁に入って、なんとか
・/font>警察沙汰・/font>はまぬがれた。わたしは暴力は嫌いだが、父の直情的な行動について後で知らされたとき、「こんなにわたしのことを想っていてくれたのか」と感激した。ヤクザ映画が好きになったのはこのせいかもしれない。

 翌日の早朝、旅先から急遽帰ってきた母と、たぶん二日酔いだった父に連れられて、鈍行列車でたっぷり五時間かかる札幌の病院へと向かった。
病院でのことは、なにしろ六歳のときだから細部の記憶はおぼろげだ。先生が女の人だったこと、三人か四人の白衣の人に取り囲まれたこと、頭に針をいっぱい刺されたこと、女医先生は隣りの部屋にいるのに「あっ、頭動かさないでネ」と超能力者みたいにわたしのすることをお見通しだったこと、くらいだろうか。

 病院を出たとき父がひどく不機嫌に「なんだ、あの出っ歯の女は」と、わたしは気に入っていた先生の悪口を言ったので不思議に思ったのだが、後であれは「お気の毒ですが、お嬢さんは一生この後遺症を抱えていくことになるでしょう。発作を起すたびに知能が低下しますので、十分気をつけてあげてください」と言われたためのヤツ当たりだった、とわかった。男の人というのは複雑な感情表現をするものだ。
ポプラ並木を父と母と手をつないで「ウゥサ〜ギィおぉ〜いし〜〜」と歌いながら歩いたことは、きのうのように思い出す。親子でこんなことをしたのは後にも先にも、このときだけだった。きっと両親は、いずれわたしは歌も思い出せなくなってしまう、と案じていたのだろう。

その後9年間にわたって一日に三回、薬(
Aleniatin0.2, luminal0.05, minoaleniatin0.5, vitaplex1.0 と古い処方箋に書いてあるのだが、何のことかわからないのでどなたか教えてください)を飲まされた。発作は年に一度か二度起きた。最後は小学五年生だったと思う。脳波の検査は毎年くりかえした。
中学3年生の夏、なんとわたしは
・/font>健康優良児・/font>の郡代表に選ばれてしまった!それで母に「もう薬はのまなくてもいいんじゃない?」と提案して、やめてしまった。

 長い説明になってしまった。さて、このときから9年後の話に戻ろう。
やさしいお兄さんインターンだった人は今や立派な
・/font>先生・/font>になって、今日はわたしの治療を担当することになっていたのだという。
「なんですか、もう治ったと本人が申しておりますので」という母に、先生は「いいじゃないですか。久しぶりだもの。よもやま話でもしましょう」と言って再び診察室に招じた。このとき自分が何を話したのかもよく覚えていない。たぶん、枕から頭が上がらないことや、生きているのがつまらない、などと言ったのだと思う。先生はとてもやさしく
Myちゃんは頭がいいんだ。早熟だから、こんなに早く哲学に目覚めてしまったんだ。ふつうは高校生にならないと、そんなことは考えないものなんだけどね。でも心配することないよ。そのうち良くなるよ」と慰めてくれた。

 もう三月だったから、確かにそのころにはウツ状態は改善していた。わたしはやさしい先生の治療が効いたのだと思っていた。



 

毎年冬になるとやってくる

 

年代を追って書いていくと長―い話になってしまうので、ここでは高校一年生のときから20歳くらいまでのウツ状況を、まとめて書くことにする。

 やさしい精神科医に治してもらったはずの、中学3年生の冬に起こったウツは、翌年も、その翌年も・・・起こった。たぶん、一月くらいからだったと思うのだが、まずメチャ食いがはじまる。過食嘔吐に近い。家の中にあるものを全部食べてしまうまでおさまらないという感じで食べた。そして吐いた。過食嘔吐というのは故ダイアナ妃のように食べた以上に吐いてやせていく場合が多いらしいが、わたしは身体強健だったせいか、少しずつだが体重も増えた。3月になると制服が着られるうちに春休みがはじまってくれないとヤバイ、という悲惨な状況に追い込まれた。思春期の少女にとって、これはかなり辛いことだった。

 幸い4月に入ると少しずつ奇行がおさまり、5月の半ばくらいからは気分が急上昇して、冬のあいだにつけた贅肉はすっきりと消えていった。これを毎年くりかえした。当時はメチャ食いをするから・#24962;うつ・#12395;なるのだ、と思い込んでいた。まるで麻薬中毒患者になったような気がしていた。季節が変われば治るという保障がなければ、とうてい耐えられなかったように思う。もちろん、こんな・#31192;密・#12399;誰にも打ち明けられなかった。表向きは・#39135;べ盛りの娘・#12392;見えていたことだろう。

 この時期のウツ症状がどんな形で現れたか、思い出す限りのエピソードを書いてみよう。ちなみにわたしは高校1年生の夏から3年の夏までは、親元を離れて札幌で大学生の姉とアパートぐらしをしていた。その後、姉が留学したため、一人でアパート暮らし、東京の大学に入ってからもひとりでアパートくらしをしていた。今思うと、これはあまり良くなかったかもしれない。

 *高校はアパートから歩いて10分くらいのところにあったのだが、学校にいる間中、ガスの元栓を閉め忘れたような気がして、昼休みに走って帰ることがあった。元栓はいつも、ちゃんと閉めてあった。

      今、ちょっと辛いから「20分くらい死んでいたい」という気持ちになった。 

        街にでかけてバスから降りたとき、お気に入りの皮細工のブローチがはずれて、前車輪のそばに落ちた。かがんで拾おうとするとバスが発車したときアブナイという位置だった。元気なときのわたしなら、当然、車掌さんに声をかけて待ってもらうはずなのに、それができない。ただじっと立ち尽くして、ブローチがペチャンコになるのを見送った。その日は帰宅してから盛大に食べて吐いた。

      凍てつくような真冬の夜、知人と話し込んで帰宅が零時近くになった。しかもアパートの鍵を持っていなかった。管理人のドアを叩いて懇願することができず、外で数時間震えていた。もうこれ以上は耐えられない、というころになって、意を決して窓に明かりのついている住人に救済してもらった。親切な大学生の女性で、唇を紫色にして震えているわたしを抱きかかえるようにして招じ入れてくれた。そして、朝方までアンコールワットやタージマハルの話をして、とてもなぐさめられた。  

  もう想像がついたと思うけど、受験勉強の追い込みがはじまる時期に、わたしはウツの真っ最中だった。秋の終わりに最高潮に達していた成績が下降線をたどるのを、悲しくみつめていなければならなかった。どうして日本の受験は2月、3月に行われるのだろう!

受験日の数週間前から眠られない夜がつづき、学校も休みがちだった。でもこれは、ほかの生徒も最後の詰め込み勉強のために休んだりしていたので、あまり目立たなかったようだ。

受験の前日、「明日の朝は定刻に目を覚ますことができなくて、すべてパァーになるだろう」という妄想に駆られているわたしを、近くで下宿していた大学生の兄がお見舞いにきてくれた。突然泣き出したわたしに、兄は「一応、人生の一大事だからな、そんな日に目が覚めないなんてことないよ。心配するナ。でもまぁ、万一寝過ごしたら、そこまで腹のすわった人間なら大学なんか行かなくてもいいってことサ」と言ってくれた。

わたしの・#12454;ツ状態・#12395;ついてはまったく知らず、多少ピントのはずれた激励ではあったけれど、大学なんか行っても行かなくても、どっちでもいい、と考えている家族に見守られていることを感じて、とても嬉しかった。

翌朝はかなり体調が悪かったけども、目は覚めた。寝床から這って出なければなければならないような重たい体を叱咤して、なんとか北大の試験場にたどりついた。この日の記憶はない。

結果は不合格。東大の受験が中止になった1968年のことである。

 とりあえず、ここで一時うちきりにして、思い出すたびに書き足すことにする。

この時代は、自分が・/font>ウツ状態・/font>であるという自覚がなかったので、こうしたエピソードのひとつひとつが、性格的な欠陥として自分の中で積み上げられていったように思う。その弊害ははかり知れない。

 

世界がモノクロ画像になる

 

うつ状態で見る世界を想像できない人は、ロビン・ウイリアムスが主演した映画「What Dreams May Come(奇跡の輝き)」を見てみるといい。ひょっとすると、ボクの世界はいつもこんなヨ、でも気にしないの、なんて言ってる人もいるのかもしれない。気にする人だけがうつうつとするのかもしれない。ともあれ、こんな世界に生きていてなにがおもしろいの、という世界であることはまちがいない。 

 高校一年生の冬、憂鬱な季節がやってきて悶々といているときに、恐ろしいことを考えてしまった。

ヒットラーに関する映画をみたのがきっかけだったと思う。中学生のときにアンネの日記を読んでとても感銘を受けたはずなのに、この冬は、

「どうしてあんなにまでして生きていたかったのだろう」と思っている自分に気づいた。そして、

「わたしだったらさっさと死んでしまう。その方がずっと楽だもの」

「世の中には生きている方が辛い人もいるんだ」

「そういう人に死ぬチャンスを与えてあげることって、むしろ親切なのかもしれない」

「だいたいこんな血筋を子孫に残すのはよくない」

「こうゆう血を絶滅させて、楽しく生きられる人だけの世界にした方がずっといい」と思ってしまった。 

 このときのわたしは、常に自分を絶滅する側に入れていたのだけれども、ここから「抹殺してあげた方が親切なんだ」という恐ろしい発想へジャンプするのは簡単なことのように思える。殺される側と殺す側の動機は同じ。紙一重の違いでしかない。 

なぜこんなことを書く気になったかというと、わたしのように・/font>善良で心やさしく・/font>、理解ある家族に囲まれていた人間でも、うつ状態をそれと知らずに放置しておいたらこんな気持ちになったのだから、今、世間を震撼させている少年犯罪を考えるときに、こういう側面も見てみたらどうか、と感じたのです。

 

親になっても治らない

 

なんど目かの・#27515;にたい・#27671;分を味わった果てに、「子どもを生めば、もうこんな気持ちにはならないにちがいない。そうだ、親になったら思春期から脱出できるはずだ」とノーテンキな考えを持ったために、めでたく親になった。

28歳のときである。

つわりも軽く、出産の数日前まで仕事をし、難なく健康そのものの娘を生んだ。産後ウツもなく(当時はそんなモノがあることも知らなかったが)、しばらくは幸せいっぱいだった。

しかし、やっぱりウツがやってきた。彼女が3歳になる直前の夏に離婚しているので、そのゴタゴタでウツになったような気がしていたが、よく考えてみると、それ以前に落ち込んでいる。

 ともあれ、シングル・マザーになってからの冬はきつかった。以前は理由がなくてもウツになったのだが、この時期は憂うつになる理由には事欠かなかったから大変だった。しかし、そのおかげで「わたしはうつ病持ちダ!」と悟ったのだから、何が幸いするかわからないものである。

田舎町に越してきてみたら、半径50マイル以内の距離に日本レストランは一軒もなかったので、自分の食生活改善と生計を立てるのを兼ねて店開きしてしまった。こんなストレスの高い仕事にあっさり踏み込むところなどは、実に身のほど知らずである。ウツっていないときは、おおむねこんな風にそそっかしいのだ。この難業プラス子育ての最中にやってきた・#20908;のうつ・#12399;凄まじかった。従業員を采配するだけで息も絶え絶えなのに、週末には一晩に100人以上やってくる客と・#31038;交・#12434;しなければならい。疲れる。新しいウエイトレスを雇うために面接をしている最中に、涙が滲んできそうになってあわてたこともある。

仕事だけではなく、子どもの養育費のことに絡んで90ページの書類を裁判所に提出しなければならない、という余計な用事も舞い込んだことがあったのだが、何時間かけても何回書類を読んでも、答えを書き込むことができなかった。結局時間切れになって未完の書類を提出したために、養育費が半額になってしまった!こういう実害の大きいドジをやるといよいよ滅入ってしまう。この年は冬のウツが6月になるまで抜けなかった。 

「こんなことやってたら死んじゃうーー」と悟ったのは、この地獄を体験して以来である。これはただごとではない、どこかおかしいのじゃないか、ひょっとして中学生のときの・#12504;ンな気分・#12392;関係があるのじゃないか、と遅れ馳せながら思い到ったのである。そして手あたりしだいに本を読んでみた。あった、あった。ウツのいろんな症状がぴったり当てはまるじゃないの。冬のウツは太陽光線の不足が原因しているケースが多く、これは人工光線療法が有効だという新知識も仕入れた。ただし、これはわたしの場合にあてはまるのかどうか、ちょっと疑問。

 ともあれ、「これは・#30149;気・#12394;んだ。悪性の風邪を引いたのと同じだから、良くなるまで安静にしているべきなのだ」と悟ったのである。幸い元来があまり野心も競争心も少ないボンヤリした性分だから、自分の恥を晒すことに対しては、格別大きな抵抗感はなかった。「これは今の自分にはできない」と感じたら、しない、頼む、人を雇う、方針にした。といってもそんなに簡単だったわけではない。できると思ってやっている最中にオロオロしてしまうこともあった。だいたいスーパー・マーケットに家族の食料の買い出しに行く、なんてことでつまづいてしまう時もあったのだ。選べないのである。あれはいったいどういうことなのだろう。「こんなもの食べるかしら、健康に良くなさそうな食品だなぁ、これはまだうちにたくさんあったのじゃないかしら」などなどと、どうでもいいことで迷うのだ。普段ならどっちにしても買うだけ買っておけばイイ、と即決することじゃないか。

  

毎年自己観察

 

どうも自分はウツ病持ちらしい、との自覚を持ち出してからは、春から秋にかけての気分のいいときに親しい友人たちに宣伝した。みんな『辛いときはいつでも電話してね』といってくれたが、これはウツがどんなものか知らない人のセリフだ。わたしは冗談まじりに『冬の最中にわたしからプッツリ音沙汰がなくなったら、そっちから電話してほしい。何回かけても留守電になっていたらたずねて来てほしい。ドアを叩いても返事がなかったらブチ破って入ってきてほしい!』とお願いした。

幸いそんなことは一度も起こらなかったが、友人たちは春の匂いがいっぱいの、黄色い水仙を持って・#38499;中見舞い・#12375;てくれたこともあった。もちろん、

中には善意からとはいえ「あなたらしくもない」などと・#21169;まして・#12367;れたり、そばにいると自分まで滅入っちゃう、と、口には出さないまでも申しわけなさそうに敬遠する人もいた。こっちもその気持ちがよくわかるので、なるべくひとりでいることにした。無理に笑顔などつくろうとするともっと疲れるのだし。しかし、当時はこうしたウツの気分を理解してくれなかった人の中にも、更年期になってウツ症状が出たためとか、息子がウツになったためにわたしに相談を持ちかけてきた人たちがいる。

 この次期はほぼ毎年、2月の半ば過ぎにウツがはじまっていたのだが、その時期になると、毎日注意深く自己観察してみた。それでわかったことは、心理的な要因と無関係に・#39080;邪でもひいたような症状・#12364;まずやってくる、ということだった。冬の最中だから実際、あっちにもこっちにも風邪をひいている人はあふれていて、ちょっと区別がつけにくい。しかし、あの身体が重くて枕から頭があがらない感じは独特だ。『風邪だ、風邪だ』と自分に言い聞かせて一日中、ときには翌日までぐっすり寝てしまう。ところが、いくら寝ても気分は良くならないし、こんなことしてられない、と自分を叱咤して

起きてみると、もう完全にウツの最中にいる・・・。せっかく起きたのに、何も手につかない自分を発見するのだ。

 最近になって、レム睡眠とウツの関係についての資料を読んだが、寝過ぎは良くないらしい。もっとも眠られないウツの人もいるから、その場合はどうなるのだろう。わたしは眠いウツの方だが、調子が悪いときほど頑張って起きるように心がけている。

 ウツのときは休養が必要、と学んでからは、仕事の方はなんとかやりくりしてストレスのない状態にできた。しかし、毎日なにもしないでいるのも辛いもので、つい『こんな時間のあるときにこそ押し入れをかたずけよう』などど思いついて、結局、まったくかたずけられないまま、部屋中をとっちらかしてしまうハメにもなった。ウツのときにかたずけものは禁物!

編み物(残念ながらわたしは編み物はしない)とか推理小説を読むとかがよいのではないかと思うが、これもウツになる前に編む物のデザインや毛糸の色を決めて、できれば途中までやりかけている状態で待機させておくのがいいのじゃないだろうか。本もあらかじめ読みたいものを買っておくといい。なぜなら、ウツに突入したらこんな簡単なことでも決断できないかもしれないからだ。わたしは司馬遼太郎などの8巻とか12巻とか、長い小説を用意しておいて、2、3週間せっせと読んだものである。

電話がかけられない、というのもあった。私用ならほっておけばいいようなものだが、そうもいかないときがある。だいたい・#32681;理を欠く・#12424;うな行為にやたらと神経をすり減らすのもウツの特徴じゃないだろうか。代理人にかけてもらえるような内容ならそうするが、どうしても本人でなければならないときは実に困る。電話口で絶句するかもしれないじゃないか・・・というのは大げさだけど、気分としてそんなときもある。最近はE−メールで処理することができるようになって、ありがたいことだ。

 車や家の鍵なども予備のコピーをつくって、秘密の場所に隠しておいた。注意力が散漫になるから、こういうものをよくなくすのだ。そしてなくすたびに『どうしてこんなにドジなのだろう』と死にたいほど悩むのだから。

 ふだんなら笑って済ませられることでも、ウツのときのドジは辛い。ウツのせいだとわかっていなければ、こうした些細なドジで落ち込んで、そのためにまたドジをしてますます落ち込んで、だんだんドジの深刻度も増して、もはや・#20123;細なこと・#12392;はいえないドジにはまりこんでいく。このからくりがわかれば・#20123;細なこと・#12434;やっている状態で時を稼いでなんとか流していける。ふまじめに、ヘラヘラと受け流せるようになったらもうウツの達人だ。

わたしもそれを目指して頑張ってます。あ、頑張るのは禁物でした。

 

   

 

 

 

 

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