JBBS 19 June 2001

 

[1972] おべんとう箱 01/06/03(日) 09:23 れいこ

知り合いが二人目の子育ての話をしてた。
それは子育ては「おべんとう箱」みたいなもの、という話

#一人目の子どもを育ててるとき「もう私はこの子でいっぱい、これ以上育てるな#んて、無理」と思ったけど、そうじゃないのよね
#おべんとう箱って「しきり」があるでしょ、あれと同じ・・・
#しきりを入れて、動かすだけ・・。だから、二人目も心配しなくて大丈夫。

という話だったんだけど、それって一人で食べられるおべんとうの量は減っても
おべんとうをつくる母の愛は減らないってことだったのかな・・・?


[1971] 心によりそう 01/06/03(日) 09:07 れいこ

私は、自分が親になって子どもを育てることに自信もなくて
生まれてきた赤ちゃんを抱いて感じたのは
あぁ、この子も、わたしも、この世でたった一人の存在なんだなぁ・・ということでした。
それはすばらしい感動である一方、とてつもなく心細く感じる瞬間でもあって。

私が子どもと過ごしている時間は「愛を与える」というよりも
その子の「心によりそう」という感じに近いかも・・・
私は犬を飼ったことはないんだけれど、犬は飼い主の心をとてもよく感じて癒してくれるというよね?
なんとなく、娘からもそういう力を感じてたんです。

だから私も娘に愛を与えるというより、ただそばにいて「感じる」ようにしてた。
「オギャ~」「あぁ、そろそろおなかすいたね?ごはんにしましょ」みたいに
転んで、うぇ~ん、痛い~!と泣けば「あぁ痛かったね、すごく痛かったのよね・・・」
わけもなく夜泣きする夜は「なんだかこわい?さみしい?そうよね、そういう時もあるよね・・・」と
痛い、は、痛い。悲しい、は、悲しい。嬉しい、は、嬉しい。
だたそれだけ・・だけどなぜか、娘は怒ることがない。子どもって怒らないもの?
母はぷんぷん怒っちゃう時があるのにね(笑)
娘はとてもこわがりで、テレビでドラえもん見て「こわい」って消しちゃう(笑)
必ず怒ったりどなったりする人がでてくるから・・・(ジャイアンとか)
1歳の時にドラマの悲しい場面を見て涙流してたくらい、感受性が強い女の子です。


[1970] 愛すること 01/06/03(日) 06:59 My

都築さんの「愛すること」論はとってもすてきだから、世界に向かって大きな声でいいつづけてね!ホントに、こんな解放された日本人男性が存在するということだけで、希望が沸いてしまう(^^)
ところで、都築って変換がうまくいかないから、寧unさんとか純(?)とかにしてくれないかなぁ。
下の子が生まれるときに、上の子とどんな風につきあうかについて書いた本が最近はいろいろ出てきているけど、言葉がわかる年齢だったら、妊娠中から赤ちゃんの成長を話して聞かせたりして、家族みんなで迎え入れる感じにするとか、そういうことなのね。いままでひとりっこだったのが変わるわけだから、当然、物理的な扱いは変化する。でも、それを親の愛情の欠如と誤解しないようにしてあげればいいだけなんだけど。こういうことが1歳、2歳のころに起きると、なかなかむずかしいでしょう。愛というものを観念的にとらえる年齢には達していないわけだから。まぁ、なんとか手わけして欲求を満たしてあげるしかないかも。基本的には「お兄ちゃん(お姉ちゃん)になったんだから」の一言で片づけずに、寂しいんだなぁ、ってわかってあげれば以心伝心かもしれない。わたしはひとりしか生まなかったし、自分自身は末っ子だから、この問題は実感としてはよくわからない。ただ、幼児の世界(わたしたちの多くが記憶していない年齢)はとてもやわらかくて、大人にとっては何でもないことでも、まるで戦争体験でもしたみたいに感じるときがある、ってだけのことなのだけど。


[1969] Re:母の愛2 01/06/03(日) 06:49 よっしい

>「愛」は物質や肉体や(一緒・・笑)、時間に縛られた世界に在るものじゃないと思うんです
私もそう思う。でも・・・。
>一緒に寝てくれたり、抱っこしてくれたりという「行為」が愛の証明と勘違いすると(それが無いと愛を感じられないと)、有限の「行為」を他と分け合わなくてはいけない状況になった時に「自分へ向けられる愛が減った」と感じるんじゃないかなぁ?
私は、愛の総てをあらわせるとは思わないけど、行為は愛情表現だと思う。
特に、生まれて間も無い子は他者の行為によって生死に関わる影響が大きい。
愛情なのか、好意なのか、行為なのか、愛は限れないけど、愛情表現の行為は有限だから。
>もっとも、母親自体がそれを勘違いしてる場合も多いと思うけど・・・・
過保護といわれることなんかは、愛情の勘違いかも。


[1968] 母の愛2 01/06/03(日) 05:22 都築

やっぱり書き切れなかった(汗)
(いくら長く書いても僕の感覚が伝わるとは限らないんだけど・・・・笑)

「愛は与えるもの」とは言っても、「与えるもの」はあくまで「行為」じゃなくて「愛」を与えなくちゃいけないと思うんです。
「行為」は「肉体」や「時間」や「物質」に縛られて、その世界にだけ存在するものだと思うんです。
「愛」は物質や肉体や(一緒・・笑)、時間に縛られた世界に在るものじゃないと思うんです

一緒に寝てくれたり、抱っこしてくれたりという「行為」が愛の証明と勘違いすると(それが無いと愛を感じられないと)、有限の「行為」を他と分け合わなくてはいけない状況になった時に「自分へ向けられる愛が減った」と感じるんじゃないかなぁ?
もっとも、母親自体がそれを勘違いしてる場合も多いと思うけど・・・・


[1967] 母の愛 01/06/03(日) 05:21 都築

勿論僕は母になった事は無いので・・・(笑)、単なる頭の中だけの感覚ですが・・・。
下の子が生まれて上の子の世界が変わるって大切だと思うんです

下の子が生まれても、上の子の世界が変わらなければ、その子は「本当に愛を感じていた」んだとも思えるんです。

えーと・・・・・ちょっと僕の感覚を伝えにくいんですけど(書き切れるかなぁ・・・汗)

最初の子が、母親からの愛をどこかでちょっと勘違いしてしまっていたら・・・・
下の子が生まれたら、自分が所有している「母の愛」を取られたみたいな気になると思うんです。
愛って形とか大きさとか無いから、下の子が生まれても、近所のお兄さんや、電車で隣に座った人にどんどん放出(笑)しても、減ったり(分け前が)小さくなったりするものじゃないと思うんです。

減るのは「愛によって行われる行為」が減るんだと思うんです。
(例えば、抱くとか一緒に寝るとか、一緒に過ごす時間とか・・・)
それは、「愛」じゃなくて「行為」なんですよね・・・・
愛に対する嫉妬って無いと思うんです。
嫉妬する心は、限りのある行為(時間)というモノを他と分け合う事(自分の分け前が減る事)に「嫉妬」するんだと思うんです。
つまり、それって単なる「所有欲」ですよね。

仕事をしてる母とか、下の子が生まれたりすると、当然母親にも肉体と時間の制限があるので「行為」は限られちゃいます。
子供が「行為」を「愛の証明」と勘違いしてしまうと、行為が減ると自分が受け取る愛が減ったような気になってしまうのかもしれないと思うんです。
その場合、その子は元々「本当の愛」をちゃんと受け止めていなかった事になるんじゃないかと・・・・(つまり、その子は「行為」を「愛」と勘違いしていたんじゃないかと・・・)
下の子が生まれる事で
「(自分に向かう)行為が減っても、愛は変わらないんだ・・・
」と気づく事が出来たら、その子は愛の事を理解出来るような気がするんです。

そしてその「同じ愛」を、自分も弟(妹)や、近所のおじさんや、いとこや、同級生にも放出(何か良い言葉は何ですかねぇ・・・笑)出来るようになる気がするんです。

 


[1965] 愛する事って・・・ 01/06/03(日) 04:53 都築

「愛は与えるもので、恋は奪うもの」って言葉もありますよね。
僕、本当にそうだと思うんです。
恋した時の気持ちって、全部が「XXX(して)欲しい」なんですよね。
一緒に居て「欲しい」、自分を愛して「欲しい」、声が聞きたい(話し掛けて「欲しい」、顔が見たい(顔を見せて「欲しい」、全部相手に何かを求めてるんです。

そして、自分の「欲しい」が思い通りにならないと苦しい・・・・
自分の「欲しい」が思い通りになると嬉しい・・・・
(その時に「幸せだ」と感じるのはもしかするとちょっとした勘違いなのかも・・・)
愛はきっと何も求めない心なんだと思うんです

愛したから、「こっちを向いて欲しい」「自分も愛して欲しい」「喜んで欲しい」「自分の愛を感じて欲しい」「自分の愛で幸せになって欲しい」・・・・
きっとそう思ったら、それは「愛」に他のオマケが付随してしまうんじゃないかな・・・・
そう思うんです。
もしかしたら、それがれいこさんのいう「許す」って事じゃないのかなぁ・・・
「許す」って言うか、「緩める」・・・
自分(の中で何か張ってる気持ち)を緩める・・・。
自分の「要求」を緩めると、相手を尊重出来るような気がするんです

「こっちを向いて欲しい」、「自分を愛して欲しい」、「そばに居て欲しい」・・・・
自分の気持ちから相手への「XXXして欲しい」を外す(緩める)と、相手が急に(自分の意識の中で)「個」として確立されるような気がするんです。
相手が「個」として見られるようになると、その人の行動は「その人のもの」だから、当然何をしても「許せる」事になるんだと思うんです。
もっともそう感じられたら「許す」なんて言葉も変に思えるくらい・・・(笑)
だって、相手は個なんだから、こっちに許してもらう(許可を得る)必要なんて何も無いんだから・・・・
そう、僕が誰かを愛するのも「僕という個の勝手な行為」なんです

僕が、僕を愛してくれている(いた)人に感謝する気持ちも、やっぱり「僕の勝手な行為」だし・・・・

 


[1964] ゆるす 01/06/03(日) 01:13 れいこ

いま、思い出したこと
誰が言った言葉なのかわかりません・・・が
「あいすることは、ゆるすこと」だとか
(実家にあった何かに書いてあった言葉、かな?)

「愛することはゆるすこと」
子供心に、ゆるすことって、とても難しいように思えて
だとすると、愛することもとても難しいことなのかな・・・
そんなふうに感じてました

(ゆるすって?・・・ゆるすことって、どんなこと?)


[1963] 01/06/03(日) 00:51 れいこ

友人が私の書いたエッセー(旅行記)を読んで
Mちゃん(娘)は、あなたにとって「世界」への扉だったのね・・・と言った。
(あ。*世界=海外ということではありません)

たぶん、生まれてくる子どもはいつだって、世界の入り口なのではないかしら
その扉は広く、拒むものはない・・・
愛すると愛されるの違いはなく、そこには完全な世界がある

私は子ども好きというわけではなかったし、もともと子どもをうむつもりもなくて・・
きっと世界は私を受け容れないだけでなく、傷つけ、苦しめるばかりと固く信じていたの
だから私の子どもも同じつらさを味わうだけだろう、と
・・・

いま私は、近所でもどこでも歩いてる親子が愛しくて
都築さんじゃないけれど(笑)とりあえず愛しちゃってるみたいです

もちろん私の中にも「世界」があって、それも完全な世界で・・・
そのことに気づかせてくれたきっかけは、娘であり、友でした
私はこの世界を信じたいと思ったし、信じられることのすばらしさを感じた
その、私にきっかけを与えてくれた愛する友は、
長い年月を経て「メール」で再びつながった人だったのでした

 

[1967] 母の愛 01/06/03(日) 05:21 都築

勿論僕は母になった事は無いので・・・(笑)、単なる頭の中だけの感覚ですが・・・。
下の子が生まれて上の子の世界が変わるって大切だと思うんです

下の子が生まれても、上の子の世界が変わらなければ、その子は「本当に愛を感じていた」んだとも思えるんです。

えーと・・・・・ちょっと僕の感覚を伝えにくいんですけど(書き切れるかなぁ・・・汗)

最初の子が、母親からの愛をどこかでちょっと勘違いしてしまっていたら・・・・
下の子が生まれたら、自分が所有している「母の愛」を取られたみたいな気になると思うんです。
愛って形とか大きさとか無いから、下の子が生まれても、近所のお兄さんや、電車で隣に座った人にどんどん放出(笑)しても、減ったり(分け前が)小さくなったりするものじゃないと思うんです。

減るのは「愛によって行われる行為」が減るんだと思うんです。
(例えば、抱くとか一緒に寝るとか、一緒に過ごす時間とか・・・)
それは、「愛」じゃなくて「行為」なんですよね・・・・
愛に対する嫉妬って無いと思うんです。
嫉妬する心は、限りのある行為(時間)というモノを他と分け合う事(自分の分け前が減る事)に「嫉妬」するんだと思うんです。
つまり、それって単なる「所有欲」ですよね。

仕事をしてる母とか、下の子が生まれたりすると、当然母親にも肉体と時間の制限があるので「行為」は限られちゃいます。
子供が「行為」を「愛の証明」と勘違いしてしまうと、行為が減ると自分が受け取る愛が減ったような気になってしまうのかもしれないと思うんです。
その場合、その子は元々「本当の愛」をちゃんと受け止めていなかった事になるんじゃないかと・・・・(つまり、その子は「行為」を「愛」と勘違いしていたんじゃないかと・・・)
下の子が生まれる事で
「(自分に向かう)行為が減っても、愛は変わらないんだ・・・
」と気づく事が出来たら、その子は愛の事を理解出来るような気がするんです。

そしてその「同じ愛」を、自分も弟(妹)や、近所のおじさんや、いとこや、同級生にも放出(何か良い言葉は何ですかねぇ・・・笑)出来るようになる気がするんです。

 


[1965] 愛する事って・・・ 01/06/03(日) 04:53 都築

「愛は与えるもので、恋は奪うもの」って言葉もありますよね。
僕、本当にそうだと思うんです。
恋した時の気持ちって、全部が「XXX(して)欲しい」なんですよね。
一緒に居て「欲しい」、自分を愛して「欲しい」、声が聞きたい(話し掛けて「欲しい」、顔が見たい(顔を見せて「欲しい」、全部相手に何かを求めてるんです。

そして、自分の「欲しい」が思い通りにならないと苦しい・・・・
自分の「欲しい」が思い通りになると嬉しい・・・・
(その時に「幸せだ」と感じるのはもしかするとちょっとした勘違いなのかも・・・)
愛はきっと何も求めない心なんだと思うんです

愛したから、「こっちを向いて欲しい」「自分も愛して欲しい」「喜んで欲しい」「自分の愛を感じて欲しい」「自分の愛で幸せになって欲しい」・・・・
きっとそう思ったら、それは「愛」に他のオマケが付随してしまうんじゃないかな・・・・
そう思うんです。
もしかしたら、それがれいこさんのいう「許す」って事じゃないのかなぁ・・・
「許す」って言うか、「緩める」・・・
自分(の中で何か張ってる気持ち)を緩める・・・。
自分の「要求」を緩めると、相手を尊重出来るような気がするんです

「こっちを向いて欲しい」、「自分を愛して欲しい」、「そばに居て欲しい」・・・・
自分の気持ちから相手への「XXXして欲しい」を外す(緩める)と、相手が急に(自分の意識の中で)「個」として確立されるような気がするんです。
相手が「個」として見られるようになると、その人の行動は「その人のもの」だから、当然何をしても「許せる」事になるんだと思うんです。
もっともそう感じられたら「許す」なんて言葉も変に思えるくらい・・・(笑)
だって、相手は個なんだから、こっちに許してもらう(許可を得る)必要なんて何も無いんだから・・・・
そう、僕が誰かを愛するのも「僕という個の勝手な行為」なんです

僕が、僕を愛してくれている(いた)人に感謝する気持ちも、やっぱり「僕の勝手な行為」だし・・・・

 


[1964] ゆるす 01/06/03(日) 01:13 れいこ

いま、思い出したこと
誰が言った言葉なのかわかりません・・・が
「あいすることは、ゆるすこと」だとか
(実家にあった何かに書いてあった言葉、かな?)

「愛することはゆるすこと」
子供心に、ゆるすことって、とても難しいように思えて
だとすると、愛することもとても難しいことなのかな・・・
そんなふうに感じてました

(ゆるすって?・・・ゆるすことって、どんなこと?)


[1963] 01/06/03(日) 00:51 れいこ

友人が私の書いたエッセー(旅行記)を読んで
Mちゃん(娘)は、あなたにとって「世界」への扉だったのね・・・と言った。
(あ。*世界=海外ということではありません)

たぶん、生まれてくる子どもはいつだって、世界の入り口なのではないかしら
その扉は広く、拒むものはない・・・
愛すると愛されるの違いはなく、そこには完全な世界がある

私は子ども好きというわけではなかったし、もともと子どもをうむつもりもなくて・・
きっと世界は私を受け容れないだけでなく、傷つけ、苦しめるばかりと固く信じていたの
だから私の子どもも同じつらさを味わうだけだろう、と
・・・

いま私は、近所でもどこでも歩いてる親子が愛しくて
都築さんじゃないけれど(笑)とりあえず愛しちゃってるみたいです

もちろん私の中にも「世界」があって、それも完全な世界で・・・
そのことに気づかせてくれたきっかけは、娘であり、友でした
私はこの世界を信じたいと思ったし、信じられることのすばらしさを感じた
その、私にきっかけを与えてくれた愛する友は、
長い年月を経て「メール」で再びつながった人だったのでした


[1962] 01/06/02(土) 23:40 My

愛は何をするのか? これが一番むずかしい。
愛は所有しない。期待しない。条件をつけない・・・なんてよくいわれるけど、でもそんな甘やかしは共依存症みたいになるじゃないか!という人もいる。
でも、よく考えてみたら、それは自分を所有したり期待したり条件をつけようとしている人が相手のときに起きるだけ。とはいっても、多かれ少なかれ、みんなこういう弱さをもっているからむずかしい。
都築さんがいっているように、愛というものを特定の人に向けるものと思ったときにそれが起こるような気がする。都築さんは、いっぱい不思議体験をしちゃったことでもわかるように、人がまとっている殻を透視して魂に直通してしまうような才能をもっているのじゃないかなぁ。だから、誰でも愛せるのじゃないかな。
それはホントにすばらしいことだから、もっといっぱい聞かせてネ。

わたしもとてもさみしがりやだったけど、だんだん、まぁ、犬がいればなんとかなるかな、と感じはじめている(^^)
2番目の子どもが生まれたときに最初の子が感じるさみしさについては、もっともっと親が認識した方がいいと思う。たいていは1歳とか2歳のときにそれが起こるのだから、それまでその子がつくりあげてきた小さな世界をちょっと想像してみたら、どんなに恐ろしいことだったかわかるよね。
だんだん人間の心とか脳とかのことがわかってきて、生まれてから何年かのあいだに養育者がたっぷりと埜elcome to this world
って教えつづけないと、子どもは世界を恐ろしいところと思ってしまうんだ、とわかってきた。昔はだれもそんなこと知らなかったから、ものごころつくまではほっとけばいい、みたいに考えてた親も多いよね。それを責めてもしょうがないのだろう。
だから今、子育てはとても大切なことになっていると思う。人間が人間らしく生きられる世界になってきているのだから、それに適応できる人を育てなけりゃならないようになってきたのじゃないだろうか。ヘン言い方だけど、わたしたちの親や祖父母の時代は、大人になったら戦争に行って死ぬのが当たり前みたいな世界だったのじゃないだろうか。

 


[1961] Re:Re:Re:メッセージ・・・ 01/06/02(土) 23:10 ひろみ

>・・・これからは、もっとさらりと、いたいと思います。できるかな?

!! きっと、で・き・る・よ!(^^)v


[1960] Re:Re:メッセージ・・・あれ? 01/06/02(土) 22:38 おた


ここで「うまれた」大切な命が、死んでしまって・・・
(すいません、とてもおおげさです。)

ただ、助けてあげたかったのでした。


・・・これからは、もっとさらりと、いたいと思います。できるかな?


[1959] 01/06/02(土) 22:29 おた


きょうは、思いっきり?声援しました。もちろん、黄色組のみでなく、ほんとのこどもの時を生きる人たち・・・それから、おかあさんおとうさんたち、おじいさんあばあさんたち、せんせいたち・・・目にみえるもの「全て」愛おしいのです。
運動会を見ながら、「対人恐怖」のわたしはいなかったのです。いままでのいろいろを、愛しく思いだせていました。こどもたち、(どの子も)ずいぶん、大きくなりました。火事の時、ダメになったともにも、ふと、また笑顔で逢える、そんな気がしました。

もう、説明とか、言い訳とか・・・ごちゃごちゃせず、
こころも、「今」を楽しんでいました。
わたしって、こんなに元気だったんだ。


都築さんや、れいこさんや、ひろみさんのバイクに、50ccで付いていきながら、
「まってくれえー」と言いながら、寄り道したり、もう、一周?していい顔して戻ってくる頃、わたしはまだ、パンクして押してたり・・・
わたしの、前回の「魂」はかなりストレートだったのかもしれない。
それで?今回は、いろいろ寄り道したり、ゆっくり歩いたり、木漏れ日にかんじたりしたかったのかもしれない。それも、「ひとりきり」でなく、わかちあいたいのかも・・・
ソロのうたうたいでなく、うたをきいて、いっしょにうたいたかっただけなのかも知れない。

まだまだ、自分でも気づいていないこと、気づきたいことがあるようなのです。
どうぞ、また、迷いそうだったら教えてください。
できるだけ、自分でも努力します。
「成長」していきたい。

 

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