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自治省の検収を受けに行ってきた
国と都道府県と市町村
VOL.26に「決算統計」を少しご紹介したが、これに付随する資料で、「公共施設状況調査」というものがある。決算統計は、年度ごとの自治体の歳入歳出、つまりお金のフローの部分の動きをまとめたものだが、公共施設状況調査は自治体が現在所有している施設の状況を取りまとめたものである(基本的には供用を開始している施設を対象としているのみでストック全体を把握できるものではない。念のため)。
全国の自治体には、決算統計と同様、年度が終わる都度(つまり翌年度)に該当年度の施設の状況を取りまとめて自治省に報告する義務がある。で、この調査を担当している私は、先日自治省の検収を受けに行ってきた。
実を言うと先号で紹介した「上程」と同様、「検収」という言葉は財政課に来るまで耳にしたことがなかった言葉である。で、『地方財政小事典』(ぎょうせい)や『大辞林』(三省堂)で調べてみたが載っていない。私流の理解を言えば、報告数値が本当に正しいかどうか、根拠資料を見たり、運営の実態などを聞きとって報告内容が適正かどうか、受領する側が判断する作業のことである。(…と、私は理解しているが、違っているかもしれない。知っている人がいたら教えてください。)
で、この日、考えたことがある。
ずいぶん前に、ある方から「県の職員は市町村の職員に対して優越感を持っているみたいですね。どうしてですか」というようなメールをいただいたことがある。実際に県職員個々人が市町村の職員に対して優越感を持っているかどうかは別にして、県と市町村との間になんだか上下関係にも似た関係が、実態としてあることは否定しない。否定できない。で、どうしてかな、と以前考えたことを思い出した。
似たような関係は国と県の間にもあるし、卑近なところでいうなら財政課と事業課の関係もまさしくそれだと思っている。
例えば予算協議。財政課の職員が事業課に出向いてヒアリングしてもよいのに、なぜか当然のように事業課の担当者が財政課に足を運ぶ。この関係は、自治省に「呼び出されて」、資料の説明をしている私(県)の姿と同じである。で、自治省が県に対して行っていることと同じことを、県は市町村職員を呼び出して行っている。そんな構造がある。
「財政課と事業課は対等だ」、「県と市町村は対等だ」と言ってみても、足を運ぶ側とそうでない側が実は明確に分かれている(ま、財政課が足を運ぶ場合もあるし、県が市町村に足を運ぶ場合もあるけどね)。この関係が、それぞれの心理に大きな影響を及ぼしているのは間違いないと思う。
この関係を形成したのは、国が都道府県を指導し、都道府県が市町村を指導するという意識が強かった頃のことだと思うが、今でもまだまだこの意識が残っているということなのだ。いや、配属された職員にはそんな意識はないのかもしれない。以前からそうしているのでそうすること自体に疑問を抱かずにいるというのが、多分本当だろう。国(県)が何十個所に足を運ぶより、県(市町村)に足を運んでもらう方が効率的だということもある。が、これには、恒常的にそれを繰り返すことにより「足を運んでくれる」ことに慣らされてしまい、感謝やすまなさといった感情が薄れていってしまうという怖さがある。呼び出される方にも、自分が足を運ぶのが当然のような感覚を起こさせかねない。その感覚が両者の間に上下関係のような意識を作り出してしまうのだと思う。
そしてこの関係(意識)が改善されないのは、その根底に、国、県、市町村それぞれが相変わらず「指導する・指導される」という関係を存続させたがっていることがあると思う。指導する側がそれを望んでいるのはもちろん、指導される側も実はそれを望んでいる。指導されることに対して文句を言っても、一方で国や県に対して指針を示してもらいたがるなど、甘えている部分が多分にあるからだ。つまりは、現在の国と県、県と市町村の関係は、自立できない子供と子供を自立させようとしない親から成る親子のようなものだ。
親は子供が心配なのでなにかと面倒を見、それが子供の自立を妨げる。子供はいちいち口を出す親をうっとうしいと思いつつ、お金を貸してくれるなど、困ったときに手を差し伸べてくれる親のすねをいつまでもかじりたがる。そんな関係があると思う。けれど、市町村(県)はすでに大人になった(あるいは大人になるべき時期にきている)のだから、県(国)は相手を一人前とみなした応対をするべきなのだと思う。そして市町村(県)も自分が大人になったことを自覚すべきなのだ。
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