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Error of Hourglass
葉介

   6

『──以上の事実をもって、トラベラーは、地球全土の正当なる所有権を主張するものである……』
 車内に響くステレオは、衛星放送のテレビ番組のものだ。フロントガラスの中央下に映されたホログラム・ディスプレイに、一年前まで同僚だった男の姿があった。平然と彼らの主張を述べるロブ・ダンチェッカーにリカルドは歯ぎしりした。
 ワイドショーの解説者が、事件に対する個人的な感想をまくしたてている。リカルドはカーテレビのスイッチを切った。キャンプを出る前から何度も見たニュースだ。その時のオイスラー達の驚きの表情が頭に浮かぶ。トラベラー代表と言って現れた男が、一年前に失踪した同僚だとわかったとき、セキュリティの隊員達は衝撃と混乱に包まれ、互いに顔を見合わせた。
 ロブの失踪後、彼の経歴は徹底的に洗い直されたが、針の穴ほどの隙もない完璧なものだった。何より、この男はトラベラーが現れるよりかなり前からそこにいたのである。全員が信じられないという顔をするのも無理はなかった。
 しかし、その中にメイツはいなかった。朝起きてオイスラーが彼の様子を見に行ったとき、護送車の中はアレックスの遺体が横たえられているだけだったのだ。アレックスの処置を頼む、というメモ一枚を残して。そして、キャンプ地から延びる轍の跡が、メイツの向かった方向を示していた。
 リカルドは、ペームルートへ向けて車を疾走させた。走らせながら、彼は、メイツとアレックスが想像していたよりも強い絆を持っていたことを、今になって悟っていた。彼らがどこで出会ったのか、どういう生活を過ごしてきたのか。別々に個人のことは知っていても、リカルドはそういったことを聞くのは野暮なことだと思って黙っていた。だが、彼は今、それを後悔すらしていた。
 二人のことを理解していた人間が、この世に何人いるだろうか。メイツはこれから先、彼女のことは口にも出さないだろう。そしてメイツの心の痛みを分かちあえる人間はいなくなるのだ。リカルドは何も知らなさすぎた。
 それどころか、メイツは自分の命さえも投げ出そうとしている。それは間違いない。今朝、護送車の中を覗いたとき、アレックスのホルスターには拳銃が収まっていなかったのだ。
「死ぬな……、メイツ!」
 彼にできることは、メイツを生きて連れ帰ることだけだった。リカルドはアクセルを床まで踏みつけ、セキュリティの警備車は地平線の彼方に見え始めたペームルートの高層ビル群に向けて一直線に加速していった。


 セキュリティ達からはロブと呼ばれ、自分ではロイドという偽名を使い、公式にはロバートと名前を発表された男は今、当面の書類の始末に多忙だった。超高層の庁舎ビルの上部に位置するオフィス、そのパネルで仕切られた首相のためのデスクに彼は座っていたが、無論それは彼のためのものではない。彼の上司であるカーマインの、そして後にはナイアスのための椅子である。だがその双方とも、今はこの地にはいない。さしあたって、ロバートを咎める者はいなかった。
 彼は無論、テレビに映った自分の姿を、かつての同僚達が見ていたであろう事はわかっている。しかし、それについて何を思っているかどうかは、その表情から読み取ることはできない。ただ、黙々として仕事をこなしているだけだ。
 しばらくしてロバートは、チェック済みの書類を揃えてデスクの引き出しにしまうと、備え付けのインターフォンのスイッチを押した。
「ロバートだ。私はこれから総領事を迎えに行く。後の警備を頼む」
 彼はそれだけ告げると、椅子から立ち上がった。ドアを開けて首相用のブースから出ると、オフィスの所々にある黒ずんだ染みには見向きもせずに、エレベータに向かって歩き出す。オフィスの通常部署はまだ片付けられておらず、あちこちに紙切れや器材の破片が散らばっていた。
 エレベータの扉が開いて乗り込もうとしたとき、ふとロバートは、視界の端で何かが動いたように感じて立ち止まった。振り返って辺りを見回す。
 だが、もう一度見た限りでは、そこに動くものは見当たらなかった。ロバートはしばらく油断なく辺りを見渡していたが、やがてあきらめると、エレベータに乗り込んで扉を閉めた。


 警備室で端末の受話器を置くと、リーは昨日から黙り込んでしまったままのシエラを振り返った。一日にしてペームルートの首都を制圧したというのに、みんなが喜びの声を上げる中、彼女だけが違っていた。その理由を聞くこともできず、リーはいらいらと部屋の中を歩き回るだけだった。
「なあ、いつまでそんな調子なんだよ。一体何があったんだ? 話してくれないのか?」
 リーの掛ける言葉にもシエラは全く反応しようとしない。リーはあきらめたように肩をすくめると、彼女とは離れたところに腰を降ろした。
 シエラはリーが声を掛けたことに気付いた様子もなく、顔を伏せて押し黙っている。目はきっと見開かれ、床の一点を見つめていた。
 彼女は、初めて人を殺したことに対する恐怖と自責の念に、じっと耐えていた。軍という組織に所属してはいるが、トラベラーの大半の市民がそうであるように、彼女もまた人が死ぬという事態に遭遇するのは初めてだったのである。
 それも、自分の手で。
 シエラは自分の両肩を抱くようにして目をきつく閉じた。途端に、あの光景が瞼の裏に甦ってくる。頭を振ってその記憶を打ち払おうとしたが、それは完全に消えることはなく、彼女の脳裏に焼き付いてしまっていた。
 他の者達はどう感じているのだろう。
 シエラは思考を別の方向へ向けた。今回の作戦に参加した者達は、地球の人間に対して自分達が行ったことについて、どう考えているのだろうか。今回の戦闘で、多くの民間人が死傷した。どうして、彼らはあんな事ができたのだ──
 そこまで考えて、シエラは、それが無意味な想像であると気が付いた。トラベラーは、地球人を人間などとは思っていない。対等な存在として認めていない、認めたくないのだ。民間人に死傷者が多く出たのは、地球人=コピーを抹殺すること。それが「目的」だったからなのだ。
 これから先、同じようなことがもし続くなら、シエラは自分の意識がどうなってしまうのか、想像したくもなかった。人殺しに対して感覚が麻痺するか、さもなくば発狂するか、どちらかだろう。
 いや、とシエラは考え直した。感覚が麻痺して人殺しが平気でできるようになるというのは結局、狂っているのと同じ事なのだ。その意味では、あの戦闘で感じた印象は、間違ってはいなかった。
 そうはなりたくない。しかしシエラは、今の自分にはどうしても自信が持てなかった。現に自分の感情だけが先走って、それが原因で人を殺してしまったのだ。今のままでは、恐らく、引きずられていってしまう。頭に思い浮かぶのは、最悪な想像ばかりだった。
 どうしてこんな事になってしまったのだろう。
 顔を上げ、まだ現実がはっきりと掴みきれないシエラは警備室の中を見回した。リーの目は監視モニターに向けられていて、彼女に気付いた様子はない。部屋の中にいる兵達は、シエラの視線が通り過ぎるまで目を合わせないように顔をそむけている。彼らは昨日の戦闘の現場で、リーと彼女のやりとりを聞いていたのかもしれなかった。彼女はあの時、聖戦という言葉を一言のうちに否定してのけたのだ。
 不意に立ち上がったシエラに驚いて、兵士達はぎくりとして振り返った。
「少し、外の方を見てくる」
 そう言い残すと、リーが呼び止める間もなく、シエラは扉を開けて廊下に出ていった。
 ──とにかく。
 と、彼女は考えた。起こってしまった事はあきらめるほかない。これからの事に目を向けなければ。まだ、何か、方法はあるはずだ。破局を回避する方法が……。
 そうシエラは自分に言い聞かせていた。
 広いエントランスホールを抜けて正面玄関を出る。階段を降りようとしたとき、彼女は敷地内の遊歩道を駆けてくる自分の部下の兵を見つけた。
「シエラ隊長」
 彼女の前にたどり着くと、兵はそう言って敬礼した。
 シエラの服装は、目の前の兵と違って私服である。階級章もない。これは彼女が軍という組織の中でも一線を画した存在であることを示す。特殊部隊と言ってもよく、ナイアス・アコンカグア直属の、いわば親衛隊なのだ。他に、カーマイン、ツインゲート、リーなどがその中にいる。ちなみに彼女の着ている物は、全て地球製である。スラックスとシャツに、フリースジャケットとウインドブレーカーを重ね着している。氷期とはいえ夏の服装としては厚着だが、トラベラーの彼女にはこれでちょうどなのである。兵士の軍服も、それと大差はない。
 その兵士は息をつく間もなく、シエラに向かって言った。
「申し上げます! 二〇号線の警戒線を突破して、何者かが都内に侵入したとの報告あり。こちらに向かっているようであります」
「侵入者だと……?」
 一瞬、シエラの脳裏に、その侵入者とカーマイン、ロバートとが鉢合わせする光景が浮かんだ。しかし、駄目だ。二〇号線からこちらへ来るのなら、総領事館とは方向が別だった。その想像を一瞬で頭から消し去り、シエラは兵士に命じた。
「警備室に行って、リーにこの事を伝えろ。私は正門を固める」
「はっ」
 勢い良く返事をした部下は、しかし、責務を全うすることはできなかった。彼が入口に向けて走り出そうとしたまさにその瞬間、妙に乾いたような発砲の音が辺りに反響した。そしてシエラの目の前で、兵士の頭が砕けた。


 バイクにまたがったままアサルトライフルを構えた格好で、メイツは舌打ちした。庁舎から二百メートルほど離れたビルの陰である。ここへ来て早くも目的の女を見つけたが、隣に立っていた兵が動いたため、狙撃は失敗してしまった。スコープの先で、標的が建物の奥へと入っていく。メイツは小銃のストラップを肩に掛けると、モーターを始動させた。
「アレックス──」
 ──俺には、お前があんなことを言った理由がわからない。どうあろうと俺は、お前をあんな死に方で終わらせるわけにはいかないんだ。あの女がいる限りは。
 派手なホイールスピンが、メイツのつぶやきをかき消す。バイクが発進した。
 正門までの直線をアクセルを全開にして加速し、兵の誰何の声を無視して一気に門を飛び越えた。
 四方から兵が集まってくる。それをフルオート掃射で牽制しながら、メイツはロータリーを中心の芝生越しに突き抜け、遊歩道を横切り、階段を駆け上った。
「おい、なんだ……、うわぁっ!」
 外の騒ぎに気付いた出口手前の兵が悲鳴を上げる。自動ドアのガラスを突き破って飛び込んできた黒い塊が、正面から激突したのだ。
 エントランスホールの兵士、下士官達は、不意にけたたましい音とともに跳ね飛んできた同士に、唖然として立ち尽くした。突然の異変は、彼らを狼狽させ、行動を躊躇させるに十分だったのである。
 倒れている兵士に目を向け、次にその前にいるバイクに乗った男を見上げ、最後に男の身に付けている武器を見て、彼らは我に返った。その瞬間、銃弾の嵐が彼らを襲った。
 メイツはトリガーを引き絞りながら、弾丸を吐き続けるライフルを薙ぐように振り回した。観葉植物がはじけ飛び、ソファが綿を散らす。敵兵は跳び伏せたが、避け損ねた何人かは永遠に横たわることになった。
 そして全弾を撃ち尽くそうという時、メイツの視界の端に、エレベータに乗り込もうとする敵の姿が映った。弾が尽きて無用の長物となったライフルを投げ捨て、メイツはバイクをエレベータの方向へとスピンターンさせた。
 彼のいる場所から三基並んだエレベータ・シャフトまでは、十メートル程度。
 中に入った兵士が、必死に『閉』のボタンを押す。タイヤを空転させたまま、バイクのモーターが生き物のように唸りを高める。
「うおおおっ!」
 雄叫びとともに、メイツの足が勢いよく床を蹴り付ける。瞬間、後輪がグリップし、前輪が跳ね上がった。そして彼を乗せた車体は解き放たれた獣のように、今しも閉まろうとするドアを掠め、エレベータの中へと突っ込んだ。


 兵士の胸を押し潰して直立したまま停止したバイクから、メイツはようやく降りた。敵兵は死んだか気絶したのか、いずれにせよ車体に挟まれたままピクリとも動かない。今になってどっと吹き出した冷や汗を掌で拭いながら、メイツは肩で荒く息をついた。
 奇跡に近かった。ビルに突入してここまで来るということを、ほんの一瞬でやってのけたのだ。だが、そんなことをじっくりと考えている余裕は今はなかった。高速エレベータは、刻々と階数表示を刻んでいく。
 階数指定のボタンが点灯していることに、彼はようやく気が付いた。後ろの兵士が押していたのだろう。それは首相オフィスのあるところから、十ほど下の階数だった。
 その上に、他の二基の動作状況を表すゲージが付いている。その内の、真ん中のエレベータが首相オフィスのある六〇階で止まっていた。
 彼が今乗っているのは右端のエレベータだった。これと、その反対側のものは、六〇階までは上らないようになっている。今押してある階数までが限界であるはずだった。
 恐らく、あの女はそこだろう。手を背中に回して腰のアタッチメントからサブマシンガンを外しながら、メイツはそう判断した。だとすると、いったん降りて別の道を選ばなくてはならない。
 考えをまとめながら、サブマシンガンを構えた。いつエレベータが止まってもおかしくはないのだ。
 じっとエレベータが上がるのを待ちながら、彼は片手で自分の装備を改めた。
 アーマージャケットの背中には、サブマシンガン用の弾倉が三本、マガジンポーチに収まっている。右腰に掛かっているのは、発煙弾発射用のランチャーだ。アサルトライフルは下で手放したため無い。後は自分の拳銃。そして、アレックスのもの。
 不気味なほどすんなりと、エレベータは五〇階に到着した。扉の脇にぴたりと身体を寄せ、メイツは銃を構えた。
 ドアが音もなく開いてゆく。
 金属の弾け飛ぶ音。バイクのホイールキャップが無くなっていた。同時にメイツも銃のトリガーを引く。耳がおかしくなるほどの一斉掃射が始まっていた。
 バイクがうまく敵の目暗ましの役割を果たしていた。ドアが開ききるまでの間、敵の銃撃はメイツではなく車体に集中したのだ。そのわずかな隙を突いて死角にいる以外の敵兵を撃ち倒すと、メイツはランチャーを取り上げ、発射した。
 撃ち出された弾が向かいの壁で破裂するやいなや、煙幕が辺りを真っ白にしていく。
「や、やめろ!」
「撃つなァ! 同士打ちになる!」
 慌てた敵兵が発砲を制止したとき、メイツは既に行動に移っていた。サブマシンガンを捨て、身軽になると、煙幕の中へと身を踊らせたのである。
 しばらくして、悲鳴と怒号が次々に起こった。そしてそれきり、静かになった。
 煙に反応したのか天井の消火装置が作動し、水が撒かれ始めた。それが徐々に、視界を遮っていた煙幕をも鎮めていき、状況を明らかにしていく。
 そこには、一人だけが立っていた。
 口笛を吹くような感じで、深く息を吐き出す。メイツは無感動な表情のまま死体を見下ろして立っていた。
 ある者は喉を切り裂かれ、ある者は肺を刺し貫かれて倒れている。絶え間なく溢れ出る鮮血をシャワーが洗い流していく。だがメイツはその光景に顔色一つ変えるでもなく、赤く染まったコマンドナイフを一振りして胸の鞘に収めると、サブマシンガンを拾い上げた。
 シャワーの水は、このトラベラー兵のものとは別の、昨日からこびりついたままになっている黒い染みをも一緒に消し去りつつあった。靴音が遠ざかっていく中、思い出したようにエレベータがドアを閉め、下降していった。


 六〇階。
 廊下へ転がり出て一回転で身を起こし、左右へと視線を走らせる。だが、彼の目には動くもの一つすら映らなかった。
 パーティションの向こう、オフィスの中からも、聞こえてくる物音は全く無い。しんと静まり返った中、彼はゆっくりと立ち上がった。
 ──どういうことだ。罠か?
 だんだんと悪い予感が、頭の中で膨らんでくる。早くけりを着けなければ。
 焦りがそのまま汗となって額を滑り落ちる。このビルの構造を思い出しながら、メイツは歩きだした。
 ここには仕事で何度か入ったことがあった。首相オフィスに直接入ったことはないが、上も下も構造的に違いはないはずだ。頭の中の記憶と、各部署への道を示すプレートとを照らし合わせ、首相室へ向かう。
 さっき見たところ、女は隊長クラスの人間らしい。私服を着ているのが気になったが。しかしそれなら奴が行く所はそこのはずだ。いなかったら……、その時はその時だ。
 この角の先にオフィスがある。思い切って飛び出し、銃を構えた。
 何もない。
 入口の前には、衛兵すら立っていない。まるでもぬけの殻だ。走り寄り、ドアを開け放つ。一歩下がって銃を部屋に向けた。だが、やはり誰もいない。
 油断なく辺りを調べる。事務所の中にも、また首相室にすら、人の気配はなかった。
 おかしい。
 嫌な予感が、さらに大きくなる。オフィスを出て、メイツは目の前にあるエレベータを見た。
 エレベータのドアの上にあるゲージは、六〇階のまま止まっている。
 ──誰かがここで降りたはずだ。なぜ誰もいない? 階段で下へ降りたのだろうか?
 階数表示を凝視したまま、立ち尽くす。
 ほんの一瞬。
 曲がり角からゆらりと姿を現した男に、メイツは気付かなかった。
 はっとしてメイツが振り向きかけたときには、男の持っているショットガンが火を吹いていた。至近距離からの散弾が、アーマージャケットを着た腹にまとめて食い込む。
「くうっ!」
 ボディー・ブローを食らったような痛みに、思わず呻き声を上げる。
 貫通はしなかったがそれだけに衝撃は大きかった。メイツの身体が後方へ吹っ飛ぶ。私服の男が、ニヤリと笑うのが見えた。オートポンプの音が、長い通路にこだました。
 男は再び銃を構える。倒れ込もうとするメイツに向けて、その引き金に指を掛けた。確信を持って、狙いを定める。
 しかし、メイツは男の予想と違う動きをした。背中から床に叩き付けられると、その勢いのまま横転する。そして男が狙いを外した瞬間、メイツの右手から光が走った。
「うわっ」
 男が悲鳴を上げてのけぞる。その右肩にナイフが突き立っていた。ショットガンが再び火を吹き、暴発した散弾は天井の照明を粉々に粉砕した。
 よろめきながら立ち上がると、軋むようなあばらの痛みをこらえ、メイツは走り出した。骨折まではいかなくとも、ひびくらいは入ったかもしれない。だが、逃げきることはできそうだ。
 逃げるメイツの脳裏に、咄嗟にひらめいたものがあった。非常階段だ。普段は使われていないが、あそこなら少しでも身を隠せそうだった。
 記憶をたどって、その方向へと急ぐ。周囲に気を配る余裕はなかった。彼の行く手を塞ごうとするものはまだ何も現れない。先ほどの男も撒いたようだ。だが、痛みに目はくらみ、見えるのは先へと続く廊下だけだった。
 そしてやっとのことで、メイツは非常階段のドアの前にたどり着いた。防火扉の取っ手を回す。
 開かない。
 重い扉を思いきり引いてみたが、駄目だった。鍵がかかっている。いつもはロックなどしないはずだ。トラベラーがやったのだろうか。
 不思議に思ったが、ここで立ち往生しているわけにはいかない。メイツは屈み込むと、壁の足元にある蓋を開けた。カードを入れるスリットが現れる。そして懐から自分のIDカードを取り出すと、そこへ通した。
 スリット横のLEDが点滅する。ややあって、ロックの解除される音が高く鳴った。
 今度こそ、とノブに手を掛ける。
 扉を開きながら、メイツは、今の行動は少し軽率だったかもしれないと後悔していた。IDカードを使ったことによって、敵にこちらの位置を知らせたかもしれないのだ。メイツはこのビルのセキュリティ・システムの構造を思い出そうとした。しかし、そこまで鮮明に思い出せるものではない。たしか、大丈夫なはずだ。カードを使用した履歴は記録されていても、リアルタイムでチェックはしていなかった。しかしあくまでも「たしか」ではあるが。
 倒れ込むように扉をくぐる。そして余計なことは考えまいと、気を取り直したときだった。
「動くな!」
 メイツの体が硬直する。
 声は背後からだった。
 油断した……。こんな所にまで……。
「両手を頭の後ろに組んで、ゆっくりとこちらを向け」
 ぎりぎりと歯噛みしたが、もうどうする他もない。今は仕方がない。メイツは覚悟を決めると、言われた通りにし、ゆっくりと振り返った。その彼の目に映ったものは、想像していたのとは違っていた。
 グレーの三つ揃いに身を固めた、中年太りの男がこちらに拳銃を向けている。そして後ろには、男に守られるようにして、これもまたビジネススーツ姿の女性が一人、不安げな表情で立っていた。しかも、メイツはこの二人に覚えがあるような気がしたのだ。
「……なんだ?」
 思わず、心に沸き上がった疑問を口にする。
 しかしそれは向こうも同じだった。ややあって、男がメイツのジャケットのデザインに気付いて、怪訝な表情を浮かべる。
「君は……、セキュリティか?」
 男が再び口を開いた。メイツは確かにその顔に見覚えがあった。そして後ろにいた女が、思い出したように、あっと声を上げる。
「私、この人知ってます! メイツさん……、でしたよね?」


 シエラの代わりに六〇階に向かったリーから、無線連絡が入った。負傷したらしい。右肩を刺されたと言っている。
『──待ち伏せには成功したが、仕留め損ねた。防弾着を着ているらしい。……一度兵を外に集めて、全ての出口を固めろ。そうすれば、奴は一人だ。逃げられはしない』
 正門の警護のために、彼女は外に出ていた。トランシーバーをしまい、兵の詰所へと向かう。
 リーほどの戦士が傷を負うとは、よほど訓練を積んだ者らしい。それとも銃の腕が甘いせいか。それにしても、たった一人で何のために……。
 たった一人で?
 しかし、まさか……。
 シエラは、最初にあった狙撃を思い出した。あれは、もしかすると、自分を狙ったのかもしれない。だとすると……。
 まさか、あの時の男が?
 私を殺すために?
 根拠のない発想であることはわかっている。だが、シエラはその場に立ち尽くした。忘れようとしていたあの光景が、はっきりと甦ってくる。人を斬った感触を、彼女は思い出していた。
 頭から血の気が引いていくのをはっきりと感じながら、彼女は、並木に手をついて体を支えなければならなかった。


 鉄の階段を叩く三人の足音が、上下遥かに伸びるシャフトにこだましていた。
「君が総理の秘書だとは思ってもいなかったよ」
 メイツが振り向いて、後ろを歩く女性に言った。彼女は一年前、メイツがペームルートにやってきた時、一緒に飛行機に乗っていたグース・カイヤだった。そしてその隣を行く中年男性は、ペームルート首相、フレデリック・モーリス本人なのである。
 非常階段の入口にロックを掛けたのは彼らだった。二人は昨日の襲撃から逃げ遅れ、脱出する機も見いだせないまま非常階段の中に隠れていたのだという。よくチェックされなかったものだ。それともそうするだけの時間、または人手がないのか。
 しかし、これで目的は断念せざるを得なくなった。戦闘能力を持たない人間を抱えていては、積極的に動くことはできない。それどころか、脱出の方法も考えなくてはならなくなった。
 脱出、か。
 そんなことを考える余裕ができたということは、他人と話して少しは頭が冷えたのだろうか。
 黙り込んだメイツに、グースが遠慮がちに声を掛ける。
「あの、メイツさんは、どうしてここに?」
「ん、いや……、ちょっとしたプライベートの用事さ」
 それだけ言ってメイツが口をつぐむと、再び周りは静かになり、足音だけが響く世界となった。
 モーリスは今のところ、一言も喋らずにいた。それはそうだ。六〇階から一番下まで階段で降りようというのである。彼は首相として若いとはいえ、五十に手が届く年齢のはずだ。疲労を抑えるために無言でいるのだろう。メイツの方は、単に本当の事情を詮索されたくないからだ。撃たれたあばらの痛みを我慢しなければならなかったこともある。
 だが、そのモーリスが今度は口を開いた。
「外の様子はどうなっているか、君は知っているかね」
「わかりません。いったん脱出してからここへ来る間、ニュースを聞く暇はありませんでしたからね」
「そうか……。他の都市も攻撃を受けたのだろうか」
「──さあ」
 メイツは、仲間達のキャンプがアリマール=ハヤンへ行くと言っていたようなことを思い出した。彼らは無事だろうか。今となっては信じるしかない。
「大丈夫ですよ」
 彼の気持ちを察したように、グースが一言だけそう言った。根拠のない希望だったが、その言葉にメイツは慰められたような気がした。
 幾分か心に余裕のできたメイツは、後ろにいる男のことを考えた。
 国家元首。そのような身分の人間がこんなところにいるとは、全く夢にも思っていなかった。そう言った種類の人種は、いつも情報を先取りしていて、真っ先に自分の安全を確保できるものだと思っていたのである。しかし現実は少し違うようだった。
 たっぷり一時間かかって、ようやく二〇階を過ぎた。一九階との間の踊り場で立ち止まると、メイツは振り返って二人に声を掛けた。
「もうそろそろ敵が出てくると思った方がいい。ここで少し体力を回復させよう」
 そう言って壁にもたれ掛かる。他の二人もそれぞれ階段に腰を下ろした。
 メイツは手に持っている武器を確かめる。両手に拳銃が二挺。それぞれに、サブマシンガン用のマガジンを差してある。本体は六〇階の戦いでなくしてしまっていた。そして発煙弾が一発。これで何とかくぐり抜けなければならない。不可能に近い。だがやるしかなかった。
 腕時計の分針が十回動くまで待って、メイツは二人を立ち上がらせた。再び歩き出す。そして一九階の踊り場を回ったとき。
「いたぞ!」
 反射的にメイツの右腕が跳ね上がり、引き金を引いていた。胸に弾を受けて転がり落ちる兵にとどめを差すように、さらに三発続けざまに撃つ。義手に仕込まれたスマートリンク・システムによる近距離射撃。目を向ける必要もない。彼の肉眼と左手の銃は、同時に後続の兵を捉えていた。
「見つかったか! 急ぐぞ!」
 前を睨んだまま、突然の出来事に血の気を失っている二人に怒鳴る。二人は慌てて階段を降り始めた。メイツもそれを追おうとする。
 微かに、蝶番の軋む音が彼の耳を打った。
「避けろ!」
 勢い良く背後のドアが開け放たれた。メイツが前を行く二人の背中を突き飛ばす。一九階の踊り場に廊下から兵士が殺到し、メイツの背中をその銃が一斉に狙った。
 敵兵の目の前で、メイツは転がり落ちる二人に続いて階段に飛び込んだ。
 倒れ込む直前に身体を反転させる。
 兵達の指が引き金を引いたとき、彼の身体は階段に仰向けに投げ出されていた。そうすることで、敵の目に晒される面積が最小に近くなる。
 銃弾が頭上を掠める。階段を頭から滑り落ちながら、メイツは両手の銃の引き金を引き絞った。
 階段を転がり落ちたグースは、身を小さく縮こませたまま、耳を抑え、歯を食いしばって必死に恐怖を耐えていた。雷鳴のように響きわたる銃声が、いつ果てるともなく続く。一発の銃声は、一人の断末魔の叫びを伴っていた。
 メイツの身体が下の踊り場で止まったとき、上の階に立っているものはなかった。敵兵の持っていた拳銃が、空しく階段を転がり落ちていった。


 エントランスホールが真っ白な煙に包まれる。正面玄関アプローチを包囲するトラベラー達は、驚きの声を上げて後ずさった。
「落ち着け、ただの煙幕だ」
 シエラが一喝する。彼女は包囲の輪の中に立っていた。部下が下がるように言ったが、彼女は動かなかった。そして待った。
 唐突に銃弾が地面を叩く。何発かがシエラの足元をえぐったが、それでも彼女は片手に剣をぶら下げたまま微動だにしなかった。
「私が許可しない限り攻撃はするな。いいな」
 兵達は疑わしげな顔を見合わせた。その中でシエラは、玄関に向かって声を張り上げた。
「そこにいるのはわかっている。脱出のチャンスをやろう。出てこい!」
 しばらくしてメイツ達三人は姿を現した。兵達がはっと緊張する。
 シエラも同様だった。三人の先頭に立つのは、やはりあの男だったからだ。剣を握る手が汗ばむ。
 メイツは階段を降りながら、輪の中心に立つ女を凝視していた。もう後ろの二人のことすら頭にはなかった。階段を降り、地面に立った彼は、シエラに向かって叫んだ。
「やっと会えたな」
「……」
「俺は、お前の犯した罪を償わせるためにここへ来た。お前の殺したアレックスと同じように、お前も死ぬんだ!」
 左手を突き出すと、親指で地面を指す。シエラは沈黙したまま、剣を握り直した。
 メイツが銃を上げ、トリガーに指を掛けた。同時にシエラが地を蹴り、メイツの懐に飛び込む。
 一連の動作が、まるで申し合わせたようだった。
 銃声と剣戟の音が交錯する。
 グースとモーリスの見ている前で、メイツの拳銃が宙に舞った。シエラが間合いを取るため、再び跳び退く。
「メイツさん!」
「く、くそっ」
 得物を失った右手を押さえてメイツが呻いた。と、その目の前に剣が突き立った。シエラが投げたものだった。
「どういう……」
「それで私と闘え。勝てば兵には手出しはさせない。見逃してやろう」
 シエラは平静を装ってそう言い放ったが、心臓の鼓動は押さえきれないほど高まっていた。少しでも気を抜けば、足が震えてしまいそうだった。彼女も、この場で自分の始末を着けることを決めていた。
「いいだろう」
 メイツが剣を取る。グースが不安げに、彼の腕に手を置いた。メイツはちらりと振り返ると、「心配するな」とつぶやいた。
 シエラは目立たないようにそっと深呼吸すると、剣を構えるメイツに言った。
「始める前に名前を聞いておこう。私の名はシエラ・ヴィンド」
 それだけで、回りの空気は緊張の度合いを高めた。そして。
「……メイツ・シンだ」
 周囲のざわめきがぴたりと止んだ。包囲の輪が少し広がった。兵士達が一歩後ずさったのだ。
「来い!」
 シエラの剣が鞘走った。


「何をやっているんだ!」
 裏口に回っていたリーは、正面玄関口の包囲に駆けつけると、手近な兵を引き寄せて詰問した。
「メ、メイツを、名乗った……」
「……なんだと?」
 兵士達の間を抜けて、包囲の前へと出た。目の前で、シエラと男が切り結んでいる。
「あれが……メイツ……なのか?」
 シエラとメイツが出会った。彼らトラベラーにとって、これほど象徴的なことはない。にわかには信じられないことだったが、リーの喉はごくりと鳴った。
 勝負は、どうやらシエラが優勢に進めているようだ。男が繰り返し打ち込んでゆくが、シエラがそれをことごとく弾き返す。だが、リーはその中に何か妙なものを感じた。シエラの攻撃が少なすぎるのだ。それに弱すぎる。嫌な予感がして、彼は近くの兵に尋ねた。
「おい、シエラは自分から剣を抜いたのか?」
「えっ? は、はあ……」
 リーは愕然とした。彼女の得意とする戦法は、居合いなのだ。それに今使っている武器も、愛用の片刃の小刀ではない。軍の正式採用している、標準サイズの剣だった。
「何をしようとしているんだ……、シエラ」
 そしてシエラの動きが一瞬止まった。そこへメイツが剣を振り下ろす。リーは思わず、彼女の名を叫んでいた。


 手にした剣を下に下げたまま、シエラはメイツの振り下ろした剣先を見つめた。次の瞬間には、自分の身体は切り裂かれ、即死するだろう。そうすれば何もかも終わる……。
 しかし、そうはならなかった。剣の描く弧が、シエラの頭上でガクンと曲がる。そのまま勢いあまって地面を打ち、歩道の敷石が火花を散らした。
 互いが、驚きの表情で相手を見つめていた。
 シエラは死ぬ気だった。それがメイツにははっきりと感じ取れた。だが……。
 ──俺はこいつを殺す気だった。なぜ攻撃を止めたんだ。俺は何を考えてるんだ?
 不意に彼の脳裏に、アレックスの姿がよぎった。
「よせ、アレックス……」
 メイツは幻影を振り払おうとするように、頭を振った。そして再び、剣を握り直す。
 シエラもまた、やりきれない思いで剣を取り直していた。そして再び、打ち合わせようとする。そこへ、突然何者かの影が飛び込んできた。
 強烈な斬撃が、メイツを剣を弾き返していた。メイツが思わず後方へよろめく。シエラをかばうように、その影は立ちふさがった。
「カ、カーマイン?」
 シエラは驚いて回りを見回した。いつの間にか、包囲の中にロバートがまぎれて立っている。
「油断したな、シエラ」
 その男、カーマインは、振り返らずにぼそりとつぶやいた。そして、メイツに長剣を向けた。
 手出し無用の闘いのはずだったが、メイツにとってもそんなことはどうでも良かった。雄叫びを上げながら、カーマインに向かって突っ込む。
 目に見えないほどの素早さで、カーマインの剣が閃いた。あっという間もなく、メイツは剣を叩き落とされていた。
「この程度で……」
 カーマインがつぶやく。すっ、とその剣が後ろに引かれた。切っ先がメイツの眉間を狙う。そして突きかかろうとした。だが。
 派手な衝突音が正門からあがった。そこにいた全員が、思わずそちらを振り向く。
 柵が突き破られていた。そこに一台の車が乱入してきたのである。
 続けざまに銃撃がトラベラー兵を襲う。驚いた彼らが蜘蛛の子を散らすように回避するところへ、フロントバンパーを潰したその車は突っ込んできた。
「どけどけどけどけオラぁ〜!」
 運転席の窓から、リカルドが半身を乗り出してショットガンを発射している。両手で銃を保持し、アクセルを固定して片足でハンドルを操っているのだ。そしてドリフトしながらメイツとカーマインの間に割り込むと、カーマインの足元に向けて一発発射し、助手席のドアを蹴り開けた。
「乗れ!」
 メイツは唖然としているグースとモーリスをリアシートに放り込むと、押し寄せようとする兵に向かって剣を投げつけた。剣はブーメランの様に回転しながら飛び、一直線に兵の群れを裂くと、鈍い音を立てて木の幹に突き刺さった。
「オラオラオラオラどけェ〜!」
 クラクションをバンバン鳴らしながら、来たときと同じく、彼らを乗せた車はあっという間にそこから離脱していった。
 呆気に取られたまま、その場に釘付けになっていたカーマインが、気を取り直して彼女に歩み寄る。そして、その様子がおかしいことに気付いた。
「……シエラ!」
 彼女はそれまで悄然としてその場に立ち尽くしていたが、カーマインが差し延べた腕に、力なく倒れ込んでしまった。


To be continued.


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