紫煙

第一章

(1)

男はタバコを吸っていた。
タバコの煙は、生まれ出でてすぐに虚空に消えて行った。
あたかもそれは男女が出会い、深い仲となりながらも終わっていくような光景だった。
男の名は朝生謙二。グラビア撮影を中心としたフリーカメラマンとして生計を立てている
男だった。そして、彼には「まなみ」という深い仲になった女がいた。
と言っても、それは数分前まで。
まなみは、いつまでも結婚の意志の固まらない謙二に業を煮やしついさっき彼のアパート
の古い扉を音を立てて閉め、出て行ったきりだった。
謙二は、その音がまだ、鼓膜にあるのを感じながらタバコに火をつけていた。
ケンカの後に謙二がタバコを吸うのは、まなみと付き合い出してからの謙二のクセだった。
以前は、そうやって、待っていると一本吸い終わるまでにまなみが電話をかけてきていた。
しかし、今回に限っては、まなみは電話をかけてくる気配は無く、いつもなら
吸いかけのまま徐々に灰になっていくはずのタバコを一本、吸い終えてしまった。
謙二はおもむろにパソコンのスイッチをONにした。
彼は、チャットというものを趣味としていた。
チャットとは、ネット上で出会った人々が筆談を楽しむもので、これならば顔を見られず
声も聞かれず、個人の立場に囚われる事なく会話をする事ができた。
彼はいつも行くチャットルームとは別のチャットルームへと、ブラウザを移動させた。
移動したさきのサイトの名前は「トラフィック・チャット」。
以前チャットで知合った男から進められたもののその男の持つ怪しさから敬遠していた
チャットルームだった。
しかし、今の謙二は今まで自分の知らなかった何かを除いてみたい気持ちだった。
それが失恋のために起きた投げやりな気持ちだったのか、持ち前の好奇心だったのかは
謙二自身にも、わからなかった。
謙二はいつもと同じHN(ネット上で使う通り名)を入力し、トラフィック1と記された
チャットルームへと入って行った。

(2)

チャットルームには二人の人が居た。
「始めまして」謙二が挨拶を入力すると向こうからも同様に「始めまして」と入力が
返ってきた。
しかし、もう一人からは「初めてちゃうでぇ。前会ったやん。」という返事が返ってきた。
謙二が訝しげに思っていると彼(彼女?)は「ホレ、あの、いつだったか」
「俺がココ教えたったやろ。」と二回に言葉を区切って謙二に話し掛けてきた。
謙二には思い当たるフシがあった。そう、彼こそがココの存在を謙二に教えた張本人で
謙二に不信感を抱かせた人物だった。しかし今の謙二には彼が見知らぬサイトの
水先案内人に見えていた。彼は「Z」と名乗っていた。
謙二は「ああ、どうも。お久しぶり」と入力して発言ボタンを押した。
すると、Z以外に居たもう一人が突如回線の接続を遮断した。
なにか用事ができたのか、それとも謙二に不快感を感じたのか、分からなかった。
しかし、Zはそれを気にとめる様子もなく、相変わらずの関西弁で謙二に話し掛けてきた。
話の内容は他愛もなく「飲みにでも行きたい気分だ」とか「どっかにいい女がいないか」
というような世俗的な話だった。しかし、Zの言葉はどれも一種のカリスマとも呼べる
何かがあり、次第に謙二はZに引き込まれて行った。

(3)

会話に熱中していた彼はすずめの鳴き声にふと我に帰った。
何時の間にか夜が明けていたのだ。
「もういい時間なので、今日はもう」
そう発言しかけたときZが突如「090−××○○−3390」と
携帯番号を出してきた。謙二は多少とは言えおどろいた。
というのも、チャットという物はいささか機密性にかけるコミュニケーションで
電話番号や住所等の個人情報をむやみに露出して良い場とは言いがたいのである。
しかし、Zといえどもそれは重々承知しているはずだ。とすればZにはその危険を
犯してまで謙二と連絡を取りたがっているのか。
少なくとも謙二にはそう取れた。謙二は「分かった」とだけ入力しチャットルームを
後にした。
接続を遮断すると、謙二はまるでZに導かれるようにして、先ほどの電話番号をダイヤル
した。コール音が2回。すぐに、想像したとおりの少し鼻にかかったような関西弁が出た。
相手は勿論Zだった。
「今日の夜にでも飲みに行かんか?」
Zは誘いをかけてきた。「いい店知っとるんや。」と。
続けて「いやいや、そう心配せんでも。キャッチセールスとかとはちゃうでぇ。」とも。
謙二は堪えきれず噴き出した。「了解。じゃぁ、待ちあわせはアルタの前な。」
「目印は・・・」「黒いバラってのはどうや?俺が胸につけてったるわ。」
謙二は、また始めてZに会ったときの何とも言いがたい不信感を僅かに感じたがそれを
飲み込み彼の申し出を許諾した。

(4)

謙二はZの指定した時間より少しだけ早くアルタ前に到着していた。
それは彼がフリーカメラマンとしてやっていく上で身につけたクセでもあった。
待ち合わせには相手より早く現れて待っている。そうする事でクライアントに対して
低姿勢を保ちながらも相手によっては主導権を握ることさえ期待できるようになった。
しかし、今回の相手はクライアントではない。
突然、チャットで知り合い、飲みに行くことになった少々ながらも不信感の漂う男だ。
謙二はZに対し不信感をもって接するより、相手の出方を伺う意味でもこの方法を取る
ことにした。そうこうしていると謙二の腕にはめられたモノクロームの腕時計は約束の
19:00を指した。しかし、胸に黒いバラを刺した男は現れる気配はなかった。
いや、もしかすると謙二の行動をどこかで見ているのかもしれない。そのほうが謙二の
抱くZのイメージに合う気さえした。
しかし、飲み相手は以外な場所から突如として現れた。
アルタの前から歌舞伎町方面に続く道で、造花を売っていたのに気づくと同時に
その露店で黒いバラを購入し胸に刺さんとしている男と謙二は目が合った。
男は、バラを持つ手を謙二に差し出しながらニヤっと悪戯っぽい笑みを浮かべ言った。
「ケンジやな。ホナ、行こか。」
謙二はZと共に歌舞伎町を目指し歩き出した。

(5)

Zは歌舞伎町の中央通りをまるで、通いなれた通学路でも歩くかのように歩を進めた。
時折、客引きの男に「よぉ」などと愛想を振り撒きながらZは歌舞伎町の更に奥である
新宿ゴールデン街へと入っていった。
謙二は、多少警戒はしたがこの歳だ、ゴールデン街には何度か来た事もある。
よく知る店もある。いざとなったらソコへ逃げ込めばいいと考えながらZの後を
ついて行った。
謙二はZを改めて観察した。上下とも黒を基調としたいかにも高級そうなスーツを着て
その上、待ち合わせの目印「黒いバラ」を指定したあたり黒が好きなのか?それとも
雑誌か何かの今日のラッキーカラーか?謙二は自分がとてつもなくくだらない事を
考えている事を「俺にはまだジョークを考える余裕」があると思った。
しかし、それは数時間後には「あれはジョークを考える余裕じゃない、現実逃避行動
だったんだ。」と思い直すともしらず謙二は、Zが立ち止まった店の看板の薄れた字を
声に出して読んだ。
「BAR・コール・タール・・・。」
そしてこれは声に出さず(何から何まで黒尽くしだな)と思った。
「入ろか。」Zは短く言った。そして謙二の答えを聞く間も無く軋むトビラを開けて
店内へと滑り込むように入っていった。
店内は見た目より狭くカウンター席しかなかった。もっともカウンターと言っても
5人も座ればいっぱいになるほどの物だったが。
客は居なかった。バーテンと思しき人物は、ボトルとグラス、キューブロックのセット
を二人の前に置くとZと小声で何か話し、そして何かを受け取り店の外へと出て行った。
Zは「飲もうか」と言い、グラスにウィスキーのロックを2つ作り、片方を謙二に渡した。
謙二はまだ不信感を拭い去れずにいたが、酒を飲み始めると何時の間にか明朗にZと
話し出した。

(6)

どれくらいの時が経ったのだろうか。ボトルは半分を切っている。
謙二は懐をまさぐった。しかし、そこにはあるはずのタバコの箱が無くなっていた。
(どこかで落としたか?)そう思い謙二はZにタバコを分けて欲しいと申し出た。
するとZは待ってましたとばかりに見慣れぬパッケージのタバコを謙二に差し出した。
謙二は瞬間、体がこわばるのを感じた。
それはウワサに聞いた格安のマリファナシガレットだったのだ。
確かに箱にはウワサ通りの「インディアン」の文字と5枚の羽飾りを頭につけた
インディアンの横顔が張り付いていた。
「どうやら、その顔、コレが何なのか知ってるって顔だな。」
Zは言った。
「そうさ。これはタバコじゃない。マリファナの葉巻さ。」
「お前は吸う側か?それとも売りつける側か?それとも、ココで尻尾巻いて逃げるか?」
Zは会った時のとは違う、邪さを感じさせる笑みを浮かべ謙二に詰め寄った。
「お前は何者なんだ。」謙二がZに聞き返した。
「商談を持ち掛けに来たんだよ」Zは言った。笑みは張り付いたように動かない。
謙二にふと思い当たる事があった。謙二は今でこそグラビア系のカメラマンだが、一度は
報道を志した経験があった。その頃のツテで今でもとある新聞社からオモテにでない情報
を貰う事がある。その中で聞いた知識だった。確か麻薬中毒者には味覚障害や単一色への
執着という兆候が見られるというのだ。確かにZは酒に多量のタバスコを投与して
飲んでいた。また、服装と言い、バラと言い「黒」への異常な執着は明らかに中毒者の
兆候だ。
「お前、自分がジャンキーだろ。ソレを人に薦めてどうしようってんだよ。」
Zの顔に張り付いた笑みが一瞬揺れ動いた気がした。
「タバスコも然り。それに黒への異常執着も然りだ。どういうつもりだよ。」
Zは肩を震わせていた。それは嗚咽にも聞こえる笑いだった。
「アンタ合格だよ。」Zは言った。「俺はジャンキーのフリしてたんだ。」
「俺はこのドラッグの元締めさ。で、最近売人が一人それこそジャンキーになって
死んだ。そこで、信頼できる奴を探して売人にしようってハラさ。」
謙二は流れる汗には気にも止めず「大阪弁も演技ってワケだ」と続けた。
「ああ、そうさ。どうだ。6:4でイイぜ。俺が6。アンタが4だ。悪い話じゃ
ないはずだぜ?コイツは一箱2万でさばける。その4割っていやぁ、8千だ。
月に100売れば80万だぜ?カナリの収入だろ?」Zは更に続ける。
「アンタの事、俺は気に入ったぜ。アンタ、俺の兄弟にならねぇか?」
謙二はZに向かって言い放つ。
「バックは何処だ?」「あん?」とZ。「堅気の人間が義理兄弟の契りを結ぶなんて
言葉は使わない。お前、組関係者だろ?何処がバックに付いてるかって聞いてんだ。」
凄む謙二にZは気圧されしたのかいともあっさりと引いた。
「道実会(みちさねかい)会長、是唐 隆文(ぜとう たかふみ)とは俺の事だ。
どうだ、俺と組まないか。」Zは改めて謙二に詰め寄った。
謙二は考えあぐねいていた。確かに収入はありがたい。しかし、犯罪の片棒を担ぐ気には
なれずにいた。
しかし、謙二にはある理由からまとまった金が必要だった。
悪魔に肩を押されるようにして謙二は言った。
「ああ。組ませてもらうぜ。」
Zは満面の笑みを浮かべ謙二に酌した。
「これで、アンタは俺の兄弟分だ。期待してるぜ。」
謙二は「ああ。」とだけ返答した。

第二章

(1)

謙二はまるで豆腐の様に白く、無機質な感じのする建物の一室に居た。
そこの窓には鉄格子がはめられており、寝具には拘束具が備え付けられて居た。
謙二はその拘束具で、身体の自由を奪われており心の底、いや、もっと原始的な
部分から湧き上がる欲求を満たされず、うめいていた。
その世界、時間は、全てを持ってウソ臭く、謙二は夢だと思った。
その刹那。謙二は自室のベッドの上で目を開いた。
やはり夢だった。少なくとも、その時の謙二にはそう思えた。
きっと、必要な金の為とは言え、麻薬の密売という悪事に加担する自分に対する疑問
から、今のような夢を見るに至ったのだと。
ましてや、暴力団の若会長の兄弟分にまでなったのだ。精神に多少の異常をきたしても
何もおかしくはない状況だ。
謙二がZの兄弟分としてマリファナシガレット―――名前はフィフスインディアナ
と言ったが実際には「インディアナ」で通っている―――を密売し始めてから
一月が経過していた。
謙二は、それまで生業としていたカメラマンとしての必要性から東京的な景観が
立ち並ぶ中野駅周辺に、居を構えていた。
だから、一番の購買奏である若者の集まる渋谷や池袋より新宿に近く結局、歌舞伎町
近辺で、「インディアナ」を売りさばいて居た。
しかし、それでも時代は病んでいるらしく、最初の一月目だと言うのにZの予想を
はるかに上回り手元に残っただけで、100万の大金になった。
シャワーを浴び終え汗を拭う謙二の脇で携帯電話がその和音を鳴り響かせた。
電話の相手はZこと是唐だった。
是唐からの電話は、定期的にかかってきていた。しかし、この日かかってくる予定は
無い。在庫の補充に関しては謙二から連絡する事になっていたので、不穏に思いながら
謙二は通話のボタンを押した。

(2)

是唐の話は会わせたい女が居るとの事だった。てっとりばやく金になる事だとも言った。
女、手っ取り早く金になる、暴力団、この三つが結びつくキーワードは一つしかない事を
謙二は知っていた。その一つとは「不法就労――特に風俗関係――女性の日本国籍取得の
為の偽装結婚」である。しかし、そうと知りながらも謙二は出かける事とした。
何故か。それは謙二は是唐と兄弟分になったが為に是唐の為に何かできる事があれば
するべきなのでは無いかと思ったためである。しかし、それは所詮、謙二が堅気の人間で
ある故の思い違いで、実際、ソコまで是唐にしてやる必要は無い。実際、兄貴分・弟分の
違いと言えば、大きな会議等での発言・決定権の違いぐらいのもので、特に、謙二と是唐
が結んだ契りは、極々、私的な契りである為、その権利的な関係は五部と五部なのである。
にも関わらず謙二が出かけたのはその思い込みだけでは無かった。
謙二には金が必要な理由があった。
謙二にはかつて愛した女が居た。一月前に別れた「まなみ」ではない。それよりも遥か前。
高校時代、青臭くも将来を誓い合い、愛し合った女が居た。彼女の名は「由香」。
由香は屈託の無い笑顔のまぶしい、ヘッセを愛する少女だった。二人は日常的ながらも
幸せな高校生活をすごして居た。しかし悲劇が起こったのは二人が大学に上がり由香が
夏休みを利用しアジアの国へ旅行に行った際の事だった。
由香の行方不明の報が謙二に入ってきたのは由香の旅立ちから十日が過ぎたある日だった。
十年近くが過ぎた今でも由香の行方は知れない。由香の両親でさえ半ば諦めかけている。
しかし謙二にだけは諦める事はできなかった。そうする事であの日誓い合った愛が全て
否定されてしまう気がした。それからというもの、謙二は収入の内、最低限の生活費以外
の全てを由香の捜索費に当ててきた。だから、謙二には、これから先も由香が見つかるま
で―――もしかしたら一生見つからないかもしれないが―――無尽蔵の金が必要なのだ。
しかも、その金は多ければ多い程いいのは当然である。
麻薬の密売も、偽装結婚も、愛した由香の為と思えば謙二は微塵程もためらいは無かった。

(3)

待ち合わせの時間まではまだあった。とは言え時間はとうに22時を過ぎ、歌舞伎町は
その暗く淀みながらギラギラと輝く本性を現し始めていた。
謙二は時間には早いと感じながら是唐とのいつもの接触の場であるBARコールタール
へと足を運んだ。是唐とともに数回脚を運んだ謙二の事をBARの店主は「謙二さん」と
呼んだ。店主は年のころなら40半ばであろうが30に満たない謙二を「さん」付けで
呼ぶのは、それがこの世界のしきたりだからなのであろう。
謙二はIWハーパーをロックで、やり始めると、タバコに火をつけた。別に吸うワケ
ではないのに煙をくゆらせておくのは悪い癖だとかつて付き合った女によく言われた。
そんな事を考えながら1時間も待つと待ち合わせより少々早く見慣れぬ女が現れた。
いや、女であろうと謙二は思った。と言うのも女(かどうかはその時まだ定かでは
なかったが)は目深にツバ広の帽子を被っており体型の曲線でかろうじて女と判別できた
からだった。しかし、ココは歌舞伎町から少し離れただけのゴールデン街。
体型だけ女性の人間は謙二のような一般の人間が思うよりはるかに多く闊歩している。
彼女(?)は誰かを探す様子を見せたが、このBARには探す程のスペースも無く諦めて
謙二から一番遠くの席に着いてフレッシュのオレンジジュースを頼んだ。
オレンジジュースは謙二の探す由香の好物としていた飲み物でもあった。
謙二は、ふと思い出した事を打ち消し是唐を待った。
是唐は時間を守りやってきた。
「役者は揃ってるな。」
というセリフと共に。
謙二は女を見やったが、女は是唐にも謙二にも目をくれずただオレンジジュースを
飲んでいた。異常とも思えるような発汗を伴って―――。

(4)

女は帽子を取らず「カズミと言います。本名ではありません。フィリピン国籍です。」と
自らを謙二に紹介した。「で―――。」謙二が女に向かって話し掛けようとした時、是唐が
間に入ってきた。「アンタの役割は解ってるな?」と。「新郎のフリ、だろ?」謙二は多少
ちゃかして是唐に返した。「そうだ。報酬は200。まぁ、少し勘違いしている様だがな。」
「勘違い?」謙二は是唐に聞き返す。「そうだ。戸籍を貸すだけの偽装結婚じゃないんだよ。
この、カズミの希望は、謙二、お前との、本気の結婚だ。まぁ、形自体は、お前の思う
通り、婚姻届を出して、すぐに離婚する、そういう形になるがな。」
「じゃぁどういう―――。」謙二の言葉はまたも是唐のセリフにかき消される。
「一緒に暮らすんだ。まぁ、言い方を変えるなら後見人ってトコかな。勿論、性交渉は
お前の自由だがな。」そう言うと是唐はクククと、喉を鳴らした。「じゃ、後は頼むぜ。
金はいつもの口座に入れとくよ。明日にでもな。」そういうと、是唐はそそくさと店を後
にした。
謙二は、苛立っていた。あまりにも説明が不足している。何故、俺が得体の知れない
アジア人の女と暮らさねばならない。性交渉は自由だ?ふざけるな。
謙二は、カウンターを力任せに叩いた。グラスが、数ミリ浮き上がり派手な音を立てた。
「カズミ」と名乗った女は謙二の背中から肩越しに白い腕を這わせてきた。
謙二は急に吐き気を催し女の腕を振り払い店を出た。
その後、謙二は歌舞伎町の馴染みの店を何件かハシゴし、家に着いたのは空も白んで来た
頃だった。
しかし、そこには普段無いものがあった。いや――居た。
「カズミ」と名乗ったアノ女だった。
「住所。是唐サンに聞きマシた。お願いシます。お願いシます。」女はセリフの様に言った。
「日本ではお願いするときは帽子ぐらい取るモンだぜ。」謙二は女の帽子を払った。
そこには謙二の捜し求めた女性―――由香―――の顔があった。

(5)

謙二は悔やんでいた。いや、憤慨していたと言ってもいい。
何に対してか。カズミと名乗る由香の顔を持つ女に対してか
はたまた、カズミを家に入れてしまった自分にか。
違う。そう。どちらでもない。
酔いという非現実にある自分の欲求に任せたまま愛する女と同じ容姿の女を
半ば無理矢理に抱いてしまった自分に対して。
謙二は、ベッドで、愕然とした。カズミは風俗に身をやつしながらも
20代後半にもなろうと言う歳で初めての姦通だったのだ。
――しかし―――
ベッドに残る生々しい血の跡を目の当たりにしながら謙二は自己に対して言い訳をする。
しかし、「痛がらなかった」。
そこまで思い、謙二は自らの思った事の下世話さにあきれた。
カズミは寝息を立てている。
謙二はタバコに火をつけようとしたが、フと手を止めた。
そして、口からいつものタバコをはずし、ソレに手を伸ばした。
「フィフスインディアナ」―――。
謙二の売るマリファナシガレットである。
謙二は今まで、自らの売るソレに手を出した事は無かった。
ソレの上がりは全て由香の捜索費用にする為、自分の快楽を満たしても仕方が無いと
思っていた。しかし、謙二の目の前には今、仮初とは言え、由香――と同じ顔の女――
が横たわっている。性交渉も果たした。仮に、コレを機にこのカズミと名乗る女を謙二が
愛するようになったとて、誰が責められようか。謙二は今までの人生のほぼ全てを由香の
捜索にのみ捧げてきた。そう、由香の両親でさえが半ば諦めても尚、だ。
しかし、謙二は由香という女、いや、すでにそれは象徴的な存在だったのかも知れない。
そう、愛というものに対して、潔癖な男だった。
象徴ともいえる由香を自らも諦め、由香の生き写しとも言えるこの女を愛する為には
常軌を逸する何か、つまり儀式の様なものが謙二には必要だった。
それが「フィフスインディアナ」。
謙二は、ソレを口に咥えると震える手を制しながらライターをこすり、火をつけた。
インディアナに火が近づいてゆく中で、謙二は由香を思い出した。
謙二の視界がにじむ。しかし、インディアナと火の距離は次第に近づく。
まるで、何者かが、謙二の手という形を借りてライターを動かしているかの様にも
思える。
火がインディアナの先端を焦がし始める。
謙二は火勢を強める為にインディアナを吸おうと口をすぼめた。
――刹那!
聞きなれた電子音が鳴り響いた。
それは謙二の携帯の着信メロディーだった。
由香の好んだ曲「星に願いを」。
謙二は、インディアナを吐き出し、携帯を手に取った。
是唐からの着信だった。
そうして謙二は、つぶやいた。
「へっ、初めて、テメーに感謝したぜ。」
自嘲するかのように薄く笑い、謙二は電話を取った。

第三章
(1)

是唐と会うのはいつも決まった店だった。
―――BAR「コールタール」―――是唐とはじめてあったあのゴ
ールデン街の店だ。
マスターはいつもの様にラジオから流れるブラックミュージックを
少し軋む椅子で聞いていた。「注文は?」の言葉も無い。
謙二は「何か。」とだけ発した。するとマスターは「何か」を取り
出す。
フォアローゼスのボトルとグラス、氷のセット。
互いに何も言わぬまま謙二の前にそれらがセットされ、マスターは
またブラックミュージックに身を委ねる。
謙二も、物言わぬまま飲りはじめる。

小一時間もたった頃、是唐は現れた。
「遅刻だぜ、兄弟」
謙二は言った。
「悪ぃな。」
是唐はそれだけ言うと、フォアローゼスのボトルを煽いだ。
(おかしい。是唐は、こんなムチャな飲み方をする奴じゃない。)
謙二は思ったまま口に出して是唐に聞こうとした。
「何か・・・」
しかし是唐の言葉がそれを塞いだ。
「今日、呼んだのは、ちっとお前に動いて欲しくてな。」
「仕事か?」
謙二が聞いた。しかし、是唐は心底済まなそうな顔つきで
「報酬はないんだけどな。」と付け加えた。
「本来は俺か、直属の部下に行かせるはずのコトなんだが、今ウチはちょっとあってな。
お前も、事情通のはしくれならある程度は聞いてるだろ?」
是唐の問いに謙二は、僅かな間をおいて答えた。
「・・・煌々会か・・・?」
是唐は無言を持ってそれを肯定した。
是唐率いる「道実会」は新宿の新興勢力的な暴力団である。しかも、新宿の様な「力」の
乱立する地区において新興勢力としてやっていく為にはある種の
「勢い」がいる。
それを是唐は「フィフスインディアナ」という形で所有していた。
しかし、それは「勢い」という抽象的なモノに留まらず「金」とい
う具体的な「力」になった。
それに新宿の日本人系勢力の最古参「煌々会」が目をつけ「道実会」を
吸収したがっているのである。
「まぁ、それはさておいてだ。本題に入るぞ。」
是唐は、自嘲とも謙二のにわか事情通に対する侮蔑とも付かない笑いを顔に出し続けた。
「と言っても、たいした用件じゃないんだ。
 詰まる所集金さ。あるお得意様が、な。
 フィフスインディアナの支払いが滞っててな。それを集金して欲しいんだ。」
「二割俺が貰うぜ?」
謙二は、なるべく虚勢を張るようにグラスを傾けながらそれだけを伝えた。
「一割五分だ。」
「悪ぃな。」
謙二が席を立つ。と、それを今まで沈黙を保っていたマスターがせき止めた。
「ちっ。アンタ、意外とパワーありそうだな。」
謙二は、お世辞の様に笑いながらマスターの巨躯をしげしげと見た。
「一割五分で手を打つしかねーってことかよ。」
謙二がそう言うのを聞いて是唐はおかしそうに笑いながら言った。
「とは言え、集金は全額で2500万だぜ?お前の取り分は375万。結構なモンだろ?」

謙二は是唐にその集金先の男について書かれた書類だけを持ち帰った。
―――牧 忠義、32歳。一年前まで西新宿の商社に勤めていた男。
エリート街道を突き進んでいたものの、不況に合いリストラ。―――
お定まりの踏み外しだな、そう謙二は思っていた。そう。その時までは。

(2)

謙二が家に帰ると、そこは荒らされていた。
泥棒?謙二はふと思ったが、一人残したカズミの事を思い出し、カズミの無事を
確認するため、名前を呼んだ。
「ケンジサン・・・?」
怯えた様子でカズミがクローゼットから出てきた。
謙二は、体から力が抜けるのを感じながらカズミの肩を掴み
「何があった?この、家の状態は何だ?」
と急き立て、カズミの体を揺さぶった。
「ケンジサン、出てイッてサンジュップンくらい、男達入ってきた。
 ドア、蹴破ってないから、多分、ピッキング。何か探しテタ。
 金目のモンないか?とか言ってなかッタから、ただのドロボウ違う。
 ジュップンくらいで、男達、出てった。何か、無くなってる?」
「まぁ、いい。とりあえず、部屋片すぞ、手伝いな。」
謙二はそう言って錯乱した部屋を見渡した。
「??」
ふとした違和感を感じた。
引き出しの中の下着までもが散乱した部屋に、アレだけが散乱していない。
―――フィフスインディアナ―――!!
「カズミお前・・・!・・・いや、そんなバカな。」
自嘲気味に謙二は笑った。
だがしかし、謙二は確かにフィフスインディアナを隠していた。
カズミが出てきたクローゼットに、だ。
しかも、カズミは乱暴をされた感はない。
とすると―――。
謙二は確かに、何かに巻き込まれて行くのを感じた。

(3)

結果から言うなら牧 忠義という男は是唐の示した住所に居なかった。
謙二は役所に問い合わせてみたが、牧という男はその住所に住んだ
事さえなかった。
謙二は自分の頭の中で考えが巡るのを他人事の様に傍観する如くしばし呆けた。
自分が家を空けた僅かな時間に入った強盗。
乱暴を働かれなかったカズミ。
消えた200カートンのフィフスインディアナ。
そして、存在しない男、牧 忠義と、それを示唆した是唐。
疑おうとすればそれらは謙二を窮地に追いやるための材料としか考えられない。
しかし、仮にも新宿という勢力の乱立する地区で新興勢力としてのし上がってきた
男の謀る謀略としてはあまりにも、おそまつすぎる。
自らがターゲットに接している間にフィフスインディアナを引き上げる。
しかも、カズミなる得体の知れない女を張り付かせた上で――。
確かに、是唐ではなく謙二を引きつける役をコールタールのマスターが行うのであれば
ある程度の説明はつくかもしれない。
しかし、だとしても、何故、謙二を二ヶ月近くも泳がせた?
泳がせるだけならまだしも、100万以上の報酬まで与えて。
合点がいかない。
謙二は是唐に電話を入れようとしたが、ふと、その手を止めた。
カズミは―――?
アイツは、何者だ―――?
もしも――納得いくかどうかは別として――カズミが俺を監視する
為に是唐に送り込まれた女だとしたら。
謙二はカズミを自分の部屋に住まわせ始めてから(正確には性交渉のあった次の日から)
出先から帰る際にはカズミに電話していた。
カズミに対して疑惑を持ち始めた今から考えれば、あまりにも愚かしい
自らに謙二はうなだれたが、伏せた頭で謙二は考えていた。
カズミの待つ自らの部屋を張るか、是唐の居そうな場所を張るか、どちらがより
自分の勝ち目が高いのかを―――。

(4)

その夜、謙二は初めて何の目的も無くコールタールに足を運んだ。
モチロン、是唐の姿は無く、マスターが一人でグラスを傾けていた
だけであったが
謙二にはそれすらもあまり意味の無い事の様に思えた。
「何を飲む」そうマスターが問いかけたが謙二は何も答えなかった。
何かを察した様子でマスターは、ウィスキーを入れたロックグラス
を謙二に差し出した。
謙二は黙ったままグラスの中に光りながら揺らぐ琥珀色の液体を眺
めていた。
小一時間も経った頃か。マスターは、店の看板を消した。
時という物の存在しなくなった町、新宿ではあるが、それでもまだ
深夜を過ぎていない。
あまりに早すぎる閉店である。
「今日はアンタの貸切りだ。ゆっくり飲っていきな。」
マスターの声に対し、謙二はグラスを持ち上げて答えた。
そして一口、液体を口に含み目の前の男に尋ねた。いや、ブチまけ
たと言った方が正しいか―――。
「アンタは、一体何だ?是唐の味方か?舎弟か?それとも、俺の味
方なのか?さもなきゃ、俺と是唐は、何の間違いもなく味方同士
で、アンタは俺達の共通の味方なのか?
そうでもなけりゃ、アンタが、俺の部屋から、インディアナを―――」
そう言いかけて、謙二は口をつぐんだ。
インディアナの事は、口にしたらマズイ。まだ、是唐が敵だと決ま
ったわけじゃない。
ここで余計な事を口にしたら、追い込まれるのは、俺になる。
「いや――、俺のカズミを、どうこうしたがってるって事か?アイ
ツは確かにイイ女だ
そうともさ。誰かをハメたとしても手に入れるだけの価値のある女
なんだろうさ。」
謙二は肩で息をしながら、そう吐き出した。そしてグラスを一気に
仰ぐとそれを、カウンターに叩きつけるようにして乱暴に置いた。
マスターの答えはただ一言「アンタ、売人やめても、作家で食って
いけるぜ。」だった。

第四章
(1)

牧 忠義はその日、是唐に言われたとおりに、新宿や住まいのある
中野を離れ池袋に居た。
自分は暴力団やらヤクザやらとは関係のない「善良なる薬物中毒者」でしかないとは
思っていても普段居なれた繁華街とは別の町に行くのは、なんだかシックリしない奇妙な
感じがした。
牧が池袋に来たのは、前述した通り、是唐に「そうしろ」と言われた為だった。
牧は確かに、是唐のお得意様であり、フィフスインディアナの最初期の顧客だった。
しかし、エリートだった頃と違い、日々の食事さえもがままならな
くなった現在、いかに相場よりもはるかに安値であるとは言え、マ
リファナシガレットは高価すぎるシロモノだった。しかし、それで
も牧がそれを常喫できたのは是唐の指示に忠実に従ってきたその報
酬としてフィフスインディアナを与えられていた為だった。
牧が家に戻ったのは、深夜を回った頃だった。
家に戻ると、牧同様、インディアナを常用している牧の女が血相を
変えて牧に詰め寄った。
「アンタ、ヤバイよ。是唐の使いだって言う、借金の追い込みが来
たよ。アンタは是唐に信頼されてるって言うけど、どうして、そん
な追い込みが掛かってるのよ。」
牧には意味がわからなかった。今日だって、是唐のいい付け通り、新宿や中野を離れて
池袋に行っていたというのに。
「で、結局、ソイツはどうしたんだ?」
「ココに、アンタの住民票が無かったから助かったよ。ソイツ、ガキの使いみたいにして
すぐに帰ったわ。普通なら、オンナの家かもしれないぐらい、思っ
てもいいのに、不思議なくらい、あっさりと帰ったわ。」
確かに腑に落ちない、と言うように牧は考えにふけった。
もしや―――。
その俺に追い込みを掛けに来たヤツこそが、是唐に追い込まれているんじゃないか?
で、俺の借金を取り立てて来いと是唐に命令されたとして―――。
そう、例えば「お前を信用してうからこそ、こんな仕事を任せるんだ。」の一言も添えて。
だが、俺は、この家には居なかった。そう最初から仕組まれていた。
俺を、この町から遠ざけたのは是唐だ。
つまり、ソイツは必ず失敗する仕事を是唐に与えられて、失敗した暁には、ハジかれるか
もしくは、鉄砲玉にでもされるか――どっちにしろ、救いは無いがな―――となるんだろう。
そう考えた牧は、とりあえず、胸をなでおろし、家の中で心配そうに自分を見るオンナの
唇に己のソレを強く押し付け、熟れた果実を抱いて、部屋の闇へと消えた。

(2)

牧と是唐がはじめて会ったのは歌舞伎町にあるコマ劇場の地下にあるサウナの食堂だった。
牧は、新宿にある商社に勤めるサラリーマンだったし是唐に至ってはまだ
ただのチンピラに過ぎなかった。
しかし、その懐にはすでにフィフスインディアナを持っていた。
そしてそれが、拳銃を持つよりも遥かに「この世界」では有用な手段である事を確信していた。
その日、牧は勤める商社で商談をまとめた帰り、同僚と共に歌舞伎町で飲んでいた。
しかし、終電に合わせて同僚達は帰っていき、一人残ったまま飲んでいた。
ふと時計を見た時には1:30を回っていて、カプセルホテルに足を向けようとしたが
自分が思っている以上に酩酊していたらしく近場にあるサウナへ行く事にした。
「コマ劇地下のサウナ」と言えば昼間は、この歌舞伎町で知らぬものは居ない
「同性愛者のサロン」であり「暴力団関係者の憩いの場」であった。
「憩いの場」と言う言葉と「暴力団関係者」という言葉は結びつかない様に思うが
彼らもまた人間であるし、縦と横の世界で生きているのだから「憩う場」もあるのだろう。
牧はそう理解していた。
しかし、そんな「コマ劇地下のサウナ」も深夜に及ぶと終電を逃した学生や飲食店で
働く者たちの「銭湯がわり」へと変貌し所謂「平和」な場所になる。 牧は再び時計を見た。
この時間であれば「コマ劇地下のサウナ」は「平和」である事を確認した。
牧はサウナへと続く階段を降りフロントで受付を済ませるとロッカールームで服を脱いだ。
1時間もかけて長い入浴を終えると、受付の際頼んでおいたマッサージの
予約時間になっていたのでマッサージルームに向かった。
マッサージルームには3〜4名の客と、同数のマッサージ師
1人のベッドメイキングの従業員が居た。
マッサージは45分なのだが、牧は10分とせずに睡眠に落ちた。
牧が起きたのはマッサージ師に起こされたためだ。
たかが30〜40分の睡眠であるのに、やけに目が冴えていたのはマッサージで疲れが
取れた為であろうか。
そのまま食堂へと向かったのは腹を満たして自らを睡眠へと誘おうとの思いからだった。
牧は粗末な食事を終えて、タバコを取り出そうとした。
(しまった)牧は思った。
同僚達と飲んでいた店でカウンターにタバコを置いた記憶はあるが持ってきた記憶が無い。
案の定、タバコはロッカーにも無かった。
仕方なく自販機へと向かった牧だったがそこで出会ったのが是唐だった。
是唐は、入場の際には必ず着用を義務付けられていた浴衣を着ずにその後の彼の印象ともなる
ブラックのオイルコートを羽織っていた。
「タバコ、切らしたんすか?」
是唐の手には、フィフスインディアナが握られていた――。

(3)

エリート商社マンというヤツは、周りが思う程キレイな頭をしていない。
牧がそうだった。
牧は普段会社においては酒を好み仕事と女を天秤にかけるやり手の営業部員として
通っていたが、夜になれば彼の居所は歌舞伎町と決まっていた。
エリート商社マンともなれば、夜の居場所は六本木や赤坂、銀座と
思いがちだがそういった場所は、仕事っぽさがあり居心地が悪かった。
それより、物欲しげな学生と物乞い。女、ドラッグ、汚物と酒、光溢れる影の世界。
そんな歌舞伎町が牧に安息をもたらした。
もっとも、全ての商社マンがそうであるとは言わない。
やもすれば、牧が少数派なのかとも思う。
しかしながら歌舞伎町は今日もイロメキ立つ風格で牧を癒し、そこにあった。
牧は、是唐と会う時はいつも、あのサウナで会った。
それは傍から見れば夜毎の逢引とも取れた。
しかし牧は、女は性的接触よりよっぽど甘美な想いを是唐から買っていた。
牧とフィフスインディアナの出会いから2ヶ月が過ぎていた―――。

(4)

牧の女は早苗と言い、かつては牧の売人としての客だった。
というのも、牧自身、それなりの金額を企業から得てはいたし、フィフスインディアナは
格安であったのだが、それでも尚、収入と支出の折り合いが付かなくなった時期があった。
その頃、牧は自ら是唐に願い出て、安くおろして貰ったフィフスインディアナを
夜毎、繁華街で売っていた。
早苗はその頃よく買いにきた女子大生であった。
なんでもバイトのつもりで始めたホステスから抜けられなくなり、留年したのだという。
ホストに入れ込む程精神虚弱でなかった彼女はフィフスインディアナの
存在を知り、男に抱かれるよりも一人恍惚を味わう事を選んだのだった。
早苗は、牧からよく「ツケ」でフィフスインディアナを買った。
しかし、ある日、それまで黙認の姿勢を取っていた是唐が掌を返したように
牧に「ツケ」の回収を命じた。いかにホステスをしているとは言え
60万もの請求をされた早苗には選択の余地は無かった。
次の日から早苗は風俗店に従事する事になった。
早苗の勤める事になった店は歌舞伎町では当時新興の店で「ジュリア」
というソープランドだった。ソープランドとは、所謂「風呂屋」で
女は「三助」でしかない。
客の体を洗い「スッキリさせて帰す」ワケだ。
基本的に風俗店では本番行為は風俗営業法によりご法度となっている。
が、しかし、ソープランドという営業形態の中には本番行為も含まれている。
面白いのはどこの店でも片隅に使わない事を前提とした「パーソナルサウナ機」が
備えてある事だ。
これを置く事で、ソープランドは「複合入浴施設」となり「マッサージ」を
行う事が可能となるのだ。勿論ソープランドにおける「マッサージ」こそ
「本番行為」に他ならない事は誰もが知っている。
だが、そこは必要悪として警察当局も目を瞑っている。第一警察官も人間であり男だ。
休日にソープランドを利用しないとも限らない。
早苗が店で初めて取った客もまた警官だった。正義感なんてシロモノはとっくに枯れた
40を過ぎた頃の独り者――もっとも、その後、是唐率いる道実会の摘発の際に
凶弾に倒れ現在は鬼籍に入っている――だった。
早苗はその日、牧の前に姿を現した。
滞っていた支払いを済ませると「一本。」と言って牧の胸からフィ
フスインディアナを一本抜いて火をつけた。
男なら――牧ほどに女遊びに長けた男なら尚更に――ただ咥え火を付けるだけの
その動きで、相手が誘っている事は解る。
その日牧は早々に繁華街を立ち去り、場末の、酒の匂いが染み付いた安宿で早苗を抱いた。
まるで紫の煙で構成された二匹の獣の様に――。


第五章
(0)

暑い。痛い。
自由を奪うロープは手首に食い込み、ひりつく喉を潤す水はもう数時間も飲んでない。
両手を後ろ手に縛られ、かつて衣服だった布キレを下げた女は
今しがた見も知らぬ異邦の男に――本日になって何度目かの――犯されて尚現実感を持てずに居た。
股の間から男の出した精液が滲み出し、ロープに縛られた手首は赤く腫れ出血していた。
私は何年の間こうしていたのだろう。
かつて日本に居た頃は女子大生でしかなかった。
人並みに勉強をし、人並みにサボり、人並みにバイトをして、この国に観光にやってきた。
人並みに恋人も居たし、人並みに相手から愛を感じていた。
彼女が我が身を哀れむでもなく物思いに耽っていた時、昼尚暗いその部屋に灯りが指した。
ああ、またか。
誰か男が入って来て、また蹂躙される。
外界とを隔てる扉を開け逆光に見えたシルエットは、この国の男らしくない
上等のスーツに身を包んだ男と思えた。
「鈴代 由香、やな。」
男は鼻にくぐもる関西弁で聞いた。
「日本に帰って、ワシの女になり。ワシの言う通りに動くんや。今より悪くはせんから。
あんたの男にもいつか会わせちゃる。」
謙二を知っている?
「ワシか? ワシの名は・・・そうだな、是唐という事にしとくわ。そう呼び。」
しとくわ? 偽名? 何の為に? どうして私を?
「まぁ、疑問はあるやろうけど、今は考えないどき。その方がラクチンやからな。」
――時は熟した。
ゲームの始まり――。


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