9月11日
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天気のいい1日だった。朝8時から「International Economics: Recitation」という授業に出席していた。朝も早いし、算数も簡単。1次関数のグラフも分からないのかとアメリカ人をバカにし、1時間の授業を終えてロビーに出た。するとふだんはあまりついていないテレビがついている。そしてその周りを幾重にも学生が取り囲んでいる。「こんな早い時間になんでこんなに学生が集まっているのかな」と近付いてみる。
「ビデオ・ジャーナリスト」という言葉を普及させた、ニューヨーク専門のCATV局「NY1」が映し出していたのは、ワールド・トレード・センターから煙が出ている光景だった。「火事でもあったのか」とキャプションを見ると、「Plane Clash into WTC」とある。え?飛行機?
なんだか夢のようだった。一瞬、ニュースの価値が分からなかった。大したことではないとも思えたし、ものすごいことのようにも思えた。テレビ画面には午前9時3分の表示があった。
迷った。支局に電話をすべきか、このままきょうの授業を受けるべきか。直感が教える。これに巻き込まれるとしばらく大学には来れないと。
しかし手はポケットをまさぐり、25セント硬貨をいくつか握りしめていた。軽いエクスキューズのつもりで支局に電話した。「大したことはないですよね。私が行くまでもないですよね」。そんなやり取りを期待してボタンを押す。電話口に出た支局長の声はかなり緊張していた。「現場に行って!」
そこからは何も考えなかった。現金を十分に持っていることを確認。デジタルカメラを取りに部屋に戻る時には駆け足になっていた。地図代わりの「地球の歩き方」をバッグに放り込む。手帳の余白が十分に残っているのを横目で確認しながら、数本のペンを別々のポケットに入れる。履き慣れた靴。頭の中ではどのコースで行けば一番早いかをずっと考えている。
マンハッタンの西側にはRiverside Driveというバイパス道路が走っている。私の住まいもそれに面している。そこを通れば信号も少ないので、繁華街を南下するBroadwayよりは早いはず。そこに走り、タクシーを探すが、自家用車ばかり。待ちきれずに地下鉄の駅に走る。しかし乗った地下鉄は途中の34th streetで止まってしまい、車掌はそこが終点だと告げる。「Due to Explosion」の言葉がぶっそうだ。逡巡せずに地上に飛び出す。
タクシーをつかまえようとするが、地上はすでに行き止まりになった地下鉄から吐き出された人であふれており、空車がない。空車を探しながら走って南下する。どこまで行っても空車がない。そのうち渋滞も始まり、車よりも走っている方が早い。タクシーもあきらめて、自分の足で現場を目指す。
7th Ave.を12th streetまで来ると、警察によって封鎖されている。その角にはSt. Vincent Hospitalがあった。見上げると、NY1の映像で見たままのWTCが見える。時折、オレンジ色の炎を吐き出している。
日本人の団体が通りかかったので話を聞く。医者や看護婦の団体で、この病院のホスピスを見学に来たという。マンハッタン南端の宿舎から病院に向かう途中、WTCの横を通りかかってこの光景を見た。それ以後の日程はキャンセルされたらしい。「ここにいるのは医師や看護婦ばかりなのに、何もできない」と女性医師が唇を噛んだ。検問のため、そこから先には進めないのだ。
しかし、もっと近寄れると私の勘が教える。その検問の左側に周りこむように行くと、まだ警戒線が張られていない通りを見つけ、それをまた南下する。回りこんでいる間に、ビルが見えなくなった。最初は大量の煙のせいで姿が見えないだけかと思ったが、周りの人が「Collapse」「Fallen Down」と叫んでいる。まさか。にわかには信じがたい。さっきまであの姿が見えていた。
そんなはずはない。そんなはずはないと頭の中で何かがうずまく。時折出会う検問を右に左に迂回しながら、少しずつ南へ。West Village、SOHO、TriBeCaなど、おしゃれな街をゆっくり楽しむゆとりは今はない。南から北へ上ってくる大量の人波に逆行しながら、その人波の中に日本人がいないかどうかをチェックしながら、南へ、南へ。
ときおり、警察官に押し戻される。そんな時は小さな路地に入り、いったん東か西に向かう。そこでまた縦に伸びる小さな通りを見つけたら、それを通ってひたすら南へ。
地下鉄の駅であと2駅のところではまだ煙が見えていただけだったが、あと1駅の距離まで近付くと、何か白いものが降っている。視界がとたんに悪くなる。砂のような灰のような、白いものが降り注ぎ、すでに地面には積もりだしている。吸い込むとのどが痛い。着ていた上着を脱いで、口と鼻を覆う。
Reade Streetとの交差点で、いよいよ進めなくなった。地図を見るとWTCまであと6ブロック、500メートルほどしかない。そこでしばらく煙の塊になってしまったビル方面を見ながら、まだ前に進めないかを考えている。
そのうち、警官隊が本気でメディアを後退させようとする。時間は午前11時前。日本では翌日の零時だ。そろそろ朝刊の締め切りを考えないといけない。路上の公衆電話を試すが、すでに回線がダメージを受けているらしく、まったく通じない。
携帯電話も非常にかかりにくくなっているようだ。しかし通信手段を確保しておかないと、どんないい取材をしても意味がなくなってしまう。
ちょうどその角にレストランがあった。そこに飛び込むと、まだ通じる公衆電話がある。1ドル紙幣を何枚か両替えしてもらい、支局に電話。「最前線」の様子を電話口で叩き込む。
最終版の締切までは現場にいるようにとの指示だったので、その店で待たせてもらう。イタリア人コックは泣いている。時間があったのでオーナーのラナ・シンさんに話を聞く。
「このコックはいつも午前6時には店に来て、その日の仕込みをする。私は10時ごろまでには来るようにしている。いつものように店に向かっていると、WTCが燃えているのが見えた。店に急ごうとしたが、すでに避難する人や警察・消防でまっすぐには店に近付けず、いったん北から回りこむようにしてようやくたどりついた」
「たどりついてものの数分もしないうちに、ビルが崩壊した。この店の前の通りを、たくさんの人が必死の形相で逃げていった。恐ろしい。こんなことは信じられない」
灰を吸ってせきこんでいる私に、シンさんがジュースをくれた。代金を出そうとしたが、受け取らない。この悲惨な状況を共有する一種の一体感があるように感じた。
店にはもう1人、黒人女性がいた。彼女はハーレムに住み、WTC近くのオフィスに出勤する途中に遭難した。知人を探しているのか、1人になるのが恐いのか。理由は言わないが、いつまでも去ろうとしない。
店の外の交差点にいたテレビカメラの放列もじりじりと退却させられている。しかし明るい外からは店の中が見えないらしく、私達には退却指示はない。4人だけが最前線に残される形になった。
しばらくすると、医師や看護婦の集団がどやどやと入ってきた。「Triage」(負傷者のけがの程度を選別し、それぞれ最適な治療ができる施設に送りだすところ)をここに設置するのだという。テーブルをベッドのように並べ、椅子を並べ、天井には点滴を支えるハンガーをつるし、電源の確保をし、機器を設置し始める。これはいい素材になる。おいしい話が飛び込んできた。独占ルポになるじゃないか。
と思ったのもつかのまで、もう少し違う場所に設置することになったと言って、またどやどやと去っていった。それで我に帰ったのか、主人も「退避するから、お前も退避しろ」と言う。ここにこれ以上いても何もできないだろう。これより前進することもできない。締切時間も過ぎたので、退却することにする。
崩壊したはずなのに、ビルの方からはにぶい爆発音が散発的に続く。レストランを出た私は、ビルの方向を背にして歩くので、爆発音のたびに何かが降ってくるのではないかと振り返る。見え始めた野次馬も、まるでハトのように、だれか1人がさっと走り出すと、みんなが同じ方向に走りだす。恐怖感が感染している。公衆電話はもうまったく通じない。時刻は午後2時すぎ。やはりのどがイガイガする。
途中で先輩に出会う。先輩が持っている携帯電話ももうまったく通じないという。ここにいても分かることは少ないということで一致し、支局に引き返すことにする。路上には積もった灰。そしてビル内のオフィスから降ってきた書類。ちぎれて、焼け焦げている。
すでに広範囲に交通が遮断されているらしく、タクシーも通らない。もちろん地下鉄もバスも動いていない。ニューヨークが麻痺状態になっている。時折頭上を飛ぶ戦闘機の爆音にさえ驚く。音の大きさを、ジャンボ機の低空飛行だと思ってしまうのだ。また何かが起こるかもしれないという気分が根強い。
先輩から、ワシントンの国防総省でも飛行機が落ちたと聞く。また、ほかにもレーダーから消えた飛行機があるという。通じた最後の電話で、支局の人に伝えられたらしい。そんなばかな。何か情報が錯乱しているだけだろう。今見ている光景でさえにわかに信じがたいのに。ほかにもあるなんて。音におびえ、追われるように支局を目指す。結局、マンハッタンの南端からミッドタウンまで、1時間以上をかけて帰りつく。
救急車やパトカーがひっきりなしに南へ走る。大きな通りも人が歩くか緊急車両が通るかしかない。カメラや記者があふれ、カメラマンにフィルムや電池を売るちゃっかり者もいる。テレビのある店の前には人だかりがしている。
遠くからWTCを見つめ、涙ぐむ人。子供の頭を抱いて撫でながら無言の親子。少しでもいい画を撮ろうと必死のメディア。灰をかぶって真っ白になった人。いろんな人のいろんな光景を見る。
ミッドタウンはうってかわって平常通り。観光客があふれている。地下鉄もバスも通らないので、みんな歩いている。映画館やエンパイヤ・ステート・ビルやミュージカル、美術館など観光名所も閉鎖されているので、みんな手持ち無沙汰のようだ。
支局に帰りついてもまだ飛行機が2機、WTCに突っ込んだとは信じられない。テレビのニュースを見ると、本当にワシントンの国防総省にも飛行機が突っ込み、もう1機も墜落していた。
あちこちで爆弾騒ぎがある。エンパイア・ステートビル、グランドセントラル・ステーション、主要な建物はみんな一度は爆弾騒ぎ、避難騒ぎがあった。まるでそうした騒ぎがないと観光名所ではないといっているかのようだった。
9月12日
午後からイーストサイドにあるベルビュー病院へ行く。この病院は、けが人などが多く収容されたところで、しかもその脇には行方不明者の情報を登録する場所がある。野次馬は当然のこととして、家族、それに警察、病院関係者、メディア、そしてボランティアでかなり混雑している。
不明者の登録には、7ページもある書類に不明者の身体的特徴、身につけていたもの、衣類など細かな情報を書き込んで、列に並び、簡単なインタビューに答えないといけない。列は数百メートルに及び、太陽が照りつける中、家族達は何時間もじっと順番を待つ。
事件発生直後、知り合いに電話をした人も多かったようだ。南側ビルの81階で外国為替の仕事をしていたアダムス・エリアスさんは、9時前、めいのラブ・マジェウスキーさんに電話をよこし、「北側のビルに飛行機が衝突した。これから避難する」と話していたという。「ニューヨークにいる親族は私だけ。だから私が彼を探し出してあげないと」とマジェウスキーさんはおじの安否を気づかう。
中には家族の写真を使って簡単なビラを作って掲げている人もいる。ビラを持って微動だにしていなかったトーマス・ダンバーさんは、娘のロリーサ・テイラーさん(31)を探していた。北側のビル94階にあった保険会社で働いていた彼女は、当日7時50分に家を出て以来、連絡が取れていないという。夫のフランク・テイラーさんも「何でもいいから情報がほしい」と私に訴えかける。
ミシェル・リンドサムさんもおじのマイケル・フェルージオさんを探している。彼はWTCに隣接するビルで保険会社に勤めていた。しかし事件以来、消息は不明だ。「きっと助かっていると思うのでいくつか病院を回ってきたが、まだ情報はない。私が唯一の親族なので、きっと見つけてみせる」と登録の結果に望みを託す。
彼らの列の長さ、待ち時間の長さが、事件の大きさを再確認させる。
少しでも彼らの疲れをいやそうと、ボランティアが水、お菓子、リンゴ、マスクなどを配って歩く。そうした人たちは若者が多い。また、負傷者として病院に運ばれた人のリストを持って列の間を歩いていたのもボランティアだ。問い合わせがあるたびに長いリストをにらんで、名前を探す。しかし、家族達が探している人の名前を見つけることはほとんどなかった。わずかな希望にみんなが望みをかけている。
支局までタクシーやバスで帰ることもできた。しかし、少しでも自分の身体に苦労をかけて、万分の一でも家族達の苦しみを分かち合おうと、とぼとぼと歩いて帰る。決して胸を張って歩けないこの重さは何だろう。
支局に帰って、原稿を少し書く。それが日本で夕刊にクレジット入りで載った。友人達から「読んだよ」というメールが届く。中にはSIPAの同級生で「ネットで見た」という人もいた。やはり大事件の時はメディアに対する注目度も上がるのだと実感。
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